不安やネガティブな要素をなんとかしたいと、私たちは思います。
どうすればそれを消し去ることができるか。
どうすればそれを感じないでいられるか。
それは私たちの意識に勝手にやってくるもので、止めることはできません。
自然現象として風は勝手に吹くものであり、台風は勝手にやってきます。
それと同じです。
それを止めることはできませんし、消し去ることもできません。
しかし、それらと私たちの本質が無関係であると知ることはできます。
それらは私たちの目の前で展開する事項ではあります。
しかし、私たちの目の前で展開する事項と、私たちの本質は、無関係です。
それらは実に、勝手にやってきて、そして、勝手に去ります。
喜びや楽しさも、実に勝手にやってきて、そして勝手に去ります。
私たちの本質とは何か。
それは、「見ている人」です。
実に勝手に展開する様々な事項を、見ている人です。
「展開する事項」と「見ている人」は、全然別です。
この絶対的な安心がわかりますか?
「それ」と「これ」とは無関係なのです。
「私」は「不安」でもないし、「恐怖」でもありません。
そして、「喜び」でもないし、「楽しさ」でもありません。
何でもないのです。
どれでもないのです。
これらのどれでもなく、これらを認識している人です。
「そっち」と「こっち」です。
別世界です。
全然次元が違います。まったく没交渉です。
この絶対的な安心がわかりますか?
テレビの中でどんな爆発があろうとも、どんな大嵐が吹き荒れようとも、テレビを見ているこっち側では、何の影響もありません。チリひとつ動きません。
目の前で展開されている現実は、テレビと一緒です。
ちょっとリアルなテレビ、くらいなもんです。
基本的な構造は一緒です。
「目の前で展開されている事項」という意味では、一緒です。
そこでは恐怖が展開されています。ありありと展開されています。
確かに展開されています。間違いなく展開されています。
しかし、それは「私」ではありません。
「私」はこっち側にいて、それを見ている人。
そして「恐怖」はそっち側で展開していて、見られているもの。
まるっきり別物です。
つまり、関係ないのです。
対岸の火事です。
他人事です。
「へーそうなんだね」と、それだけです。
この絶対的な安心がわかりますか?
何も「私」を傷つけることはできないし、何の爪痕さえ残すことはできません。
傷つきようがないのです。次元が違うので交差しないのです。
テレビの中でどんなに刀を振り回しても、「こちら側」に届きようがありません。
どんな攻撃もクロスしません。どうしようもなくクロスしません。次元が違うので。
「私」は無傷。
玲瓏透徹。清廉潔白。
それはただ単に、事実です。
どうしようもなく、事実です。
この事実を、ただ単に知るだけです。
「傷ついた、苦しい、助けて!」
そっちのほうがウソです。どう考えてもウソです。
ウソつけお前。よくそんなウソがつけるな。事実をよく見てみろよ。
そう言われてしまいますよ、本当に。
あまりにリアルな映画に没頭して、主人公の心の痛みがあたかも自分の痛みであるかのように錯覚しているのと同じです。
あまりにリアルな現実の展開に、目の前の恐怖があたかも自分の恐怖であるかのように錯覚し、それと一体化しているのです。
一体化し、のたうち回るのは構いませんよ。
でも、どんな状態であろうとも、本来の「私」を確認してみてください。
いついかなる時でも、どんな状況であろうとも、その場で本来の「私」を確認してみてください。
玲瓏透徹、清廉潔白な無傷の私がそこにいます。
どんなに巻き込まれ血みどろの死闘を演じていても、確認すればいつでも私は「見る人」のポジションにいます。
そこにいなかったことなど、一度もありません。
そこにいながら、「気分」だけ、傷ついた気になってみたり、いい気分になってみたりしているのです。
テレビ画面の中のドラマに入り込んで、のたうち回ったり苦しんだりしているけど、我に返ればいつでも、そこはのんびりしたリビングです。
チリ一つ動かない、静かなリビングです。
見る人です、私は。
見ている人です。
私はそっち側の人ではなく、こっち側の人です。
そして、「そっち」と「こっち」は永遠にクロスしません。
どうでしょう、あなたも自分の事実を確かめてください。
そしてあなたの事実がどうであるかを、教えてください。
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