自ら光り輝くことを選択できるか

「あの人は光り輝いている」とか言いますね。

実に的を得た言い方です。

実際あなたはその人に、光を見ているのです。感じているのです。

だからそういう言葉が出てきます。

 

「光」

 

光になる、というのは、実にわかりやすく具体的な指標です。

満足して、うまくいっている時は、光り輝いてる。

だからそうなるように調整すれば、すなわちうまくいくと。

 

光り輝くって、どういうことでしょう。

それは「自ら発する」ということです。

光を「反射する」のではありません。

 

自らの内から溢れ出てくる、ということです。

自らの内から溢れ出すこと。

それがつまり、光り輝くことです。

 

何が出てくるのか?

自らの内から何が出てくるのか?

 

「何」は何でもいいのです。

そこにこだわる必要はありません。

要点は一つ、「溢れ出してくる」ということです。

「何」であるかは何でもいいのです。

 

止めようがない涙が溢れ出してくるとき、そのときあなたは光り輝いています。

排泄中、あなたは光り輝いています。(笑)

出る、出てくる、何かが自ずから溢れ出してくる。

それが光です。光が光を放つ様子です。

 

逆にそれを抑えることが、光が発光してない様子です。

光が消えている、くすんでいる、沈んでいる。

 

光り輝きたいなら、溢れるものを出す、ということです。

 

 

涙や排泄物といった物理的なモノならわかりやすいですが、そうじゃないものはどうでしょう?

例えば創作意欲とか。

あるいはただしゃべりたい欲求とか。

食べたいものを食べたいという欲求もそうでしょう。

「欲求」というものは、溢れ出してくるものですね。

 

つまり「そうしたい」ということを、素直にそのまま出す。

これもすなわち、光り輝くということです。

 

「そんなことしていいのか!?」と普通思いますね。

欲を素直に出すなんて、そんなことしていいのかと。

普通欲は抑えるもの、制御するものと教わりますし、自分でもそうすべきだと感じます。

 

しかし、光り輝くとはそういうことなのです。

内から溢れ出すものを、素直にそのまま出すということが、光り輝くということなのです。

 

逆になぜ抑えようとするのでしょうか。

それは、まわりに迷惑がかかるとか、まわりから嫌われるとか、そういう理由です。

 

だから光り輝くとはつまり、まわりに迷惑がかかったり、まわりから嫌われたりするリスクを引き受ける、ということです。

 

さあどうですか?

それでもあなたは光り輝くことを選択できますか?

 

まわりに迷惑をかけろ、とは言っていませんよ。

まわりに迷惑をかけてしまうリスクを引き受ける覚悟があるのか、ということです。

 

難関でしょ?難しいでしょ?

だから光り輝けないのです。

 

それでもあなたは光り輝きたいと思っていますか?

ならばこの難関を通過するしかありません。

ここを通るしか、その先に行けないのです。

 

そしてこれは、普通の発想、今までの発想なら、難関でしかありません。

どう考えても難しいことです。

 

しかしこの難関は、難関のまま突破しなくても、「ぜんぜん難関じゃない」という境地に達した後に通過してもいいのです。

(これは前々回話したことであり、また次回話す内容です)

 

東大受験も学力が低いうちは難関ですが、十分それを突破する学力が身についたなら、もはや難関ではありません。

逆に、学力がついてないうちにチャレンジするのは無謀というものです。

 

難関は難関を突破する実力を身につけた後に、突破する。

そのようにしてこの難関をクリアしてください。

そして、光り輝く自分を手に入れてください。

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