観察してみましょう。
身の回りを。
「考える」でも「思考する」でもなく、観察。
なん~にもないよね。
「無」です。
このなんにもなさ。
観察。
考えるのでも、思考するのでも、想像するのでもなく、観察。
いや、目の前にパソコンがあるよ、人がいるよ、風が吹いているよ、パンの匂いがするよ。
「ある」よ、確かにあるよ。
モノが、感触が、思考が。
あるよ確かに。
「ない」ってどういうこと?
パソコンはないですよ、人もいないですよ。
それらが「ある」という認識があるだけです。
実際は何もないですよ。
わかりました。
じゃあなにもなかったとして、それが何なんですか?
なにもない。
だから何?
だから何、ということはありません。
ただの事実です。
「カラスが黒い」と言っているようなものです。
だから何、はありません。
ただ見たものをストレートに言っただけです。
それは何かというと、「何か」は何でもなかったということに気づくということです。
思い込みが外れるということです。
縛られていた縄が解けるというようなことです。
「何か」と思っていたものが、何でもなかった。
どうですか、この時。
何を思います?
「なんだよ~」って感じじゃないですか?
「アセって損した」みたいな。
ほっとするというか。
観察すればそれが見えます。
見えないということは、観察してないということです。
観察じゃなくて、思考であったり、妄想であったり、想像であったり。
何か違うことをやっているということです。
「観察のやりかたがわからない」
朝顔の観察日記をやったことはないですか?
観察とは、見て、気づくということです。
今日は芽が出た、今日は花が開いた。
見て、そして気づいてください。
それが何であるかを、ずーっと見続けていってください。
何かであるのは、我々が「何か化」しているから何かではないですか。
「何か化」するのは、思考であったり、想像であったり。
「何か化」しなければ、それは何ですか?
「何」でもありませんね。
何か化する前のそれを見てみてください。
「見る」っていうかまあ、「感じる」ですけど。
「何でもなさ」しかない。
なんっっっにもないですよね、なんにも。
気楽、底抜けに気楽。
そして自由。底抜けに自由。
恐怖って想像でしかないですよね。
だってなんにもないんだもん。
なんにもない時にそこにあるのはなんですか?
気楽、そして自由。
自由に好きなものを選べます。
ストレートに好きなものを選べます。
何の躊躇もなく、好きを選べます。
普通、好きと嫌いどっちを選ぶかといったら、好きですよね。
でも、いろんな理由によって、選べない。
でも、そのポジションに居ると、好きを選ぶことになんの抵抗もありません。
だってなんにもないから。自由だから。
ただ観察すれば、それがわかります。
「あ、なんにもないや」って。
観察すれば、自由が手に入ります。
ただそれだけ。
なんの努力も才能もいりません。
ただ「見る」だけ。
「ああなんだ、もともと自由か」という、なんでもない話。
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