向き合う。
あなたはその空しさに、一度芯から向き合ってみたらいかがでしょう?
安易にテレビをつけたりSNSを覗いたりしないで、そいつと真正面に顔を突き合わせてみたらどうでしょう。
その感覚の中に、完全に身を浸してみたらどうでしょう。
それはテレビやSNSよりも、よっぽど面白い冒険になるはずです。
空しさと仲良くなってみましょう。
そいつに心を開いて、打ち解けてみましょう。
そいつは掴んだり持ったりできません。
あくまで「感覚」です。
掴めない「感覚」です。
ですから向き合うとは、その感覚と共にいる、ということです。
ずーっと気を逸らさないで、その感覚と共にいたら、どうでしょう?
…
空しさというのは、「何もない」という感覚です。
何もないのは嫌だから、テレビやSNSで何もなさを埋めようとします。
我々は「何もなさ」を、あまりにも知らなさすぎます。
なぜなら何かですぐに埋めてしまうから。
人生とは全て、「何もなさ」の中に埋められたものです。
就職、結婚、人生。
趣味、交際、育児。
余暇、労働、暇つぶし。
感覚、感情、思考、出来事。
全ては何もなさの中に埋められたものです。
にもかかわらず、我々は「何もなさ」については、あまりにも知りません。
その中に埋められるものにしか気を取られていないので、「何もなさ」そのものについては、あまりにも知りません。
「何もない」を何もないままにしておいたことなんて、今まであったでしょうか?
というわけで、いま改めて、空しさに向き合います。
今初めて、ずーっと共にありながら、今まで完全に無視していたそれと、向き合います。
さあ、ひたすら空しさの中にいると、どうでしょう。
無の中にいるって、どんな感覚ですか。
…
…
…
…
…
不思議な感覚がしませんか?
「こんな場所が今までこんなとこにあったなんて!?」って。
ずーっと今まで、その場所はあなたと共にありましたね。
ただそこに注意を向けてこなかっただけで、そこはあなたと共にずーっとありました。
今初めて芯から注意を向けてみて、気づきました。
「あ、ここってこんなところだったんだ」って。
芯から注意を向けてみると、そこは非常に興味深い場所であることがわかります。
なにしろ捉えられません。
ぐっと掴んで「はいコレ」というふうに提示できません。
それは「何」とも言えないものです。
今まで生きてきた世界の中で、感じたことのない感覚です。
非常に興味を覚えます。
もっと知ってみたいと思います。
ええ、たびたび赴いて、探索してください。
それはテレビよりもSNSよりも、もっと広大で深淵で、比較にならないくらい興味深い対象です。
なにしろ捉えられません。
「捉えられない」は「わからない」とは違います。
わかる・わからないという、いつもの感覚とは違う、新しい感覚です。
非常に興味深いです。
我々の生きている世界って、「わかる」でなければ「わからない」です。
わかる・わからない、どちらかの世界ですが、ここはそのどちらでもありません。
全く新しい世界です。
なにコレ!?
新鮮な驚きが、そこにはあります。
我々にとっては、今まで生きてきたこの三次元世界が全てでしたが、それとは違う次元があることを、初めて本当に目の当たりにしました。
それは本当に、異次元です。
日常生活のどんな感覚とも違う、異次元です。
今まで生きてきて、初めて異次元の存在を確認しました。
それは確かに興奮します。
そこに行ったからといって、別に死にもしないし、宇宙人にさらわれるわけでもありません。
それはいつでも、そこにあります。
あなたと共に、すぐそこに。
普段スルーしてるから気づいてないだけで、それはいつでもそこにあります。
今、この瞬間、意識を向けるだけで、その存在を確認できます。
異次元が、全く未知の世界が。
いまここに。
さあ、存分に探索してください。
興味の赴くままに、探索してください。
そこが全てに優先する場所であることは、さわりを知っただけでわかります。
それが全てであることは、最初の探索でわかります。
実際、そこがあなたにとって、全てになります。
そこが何か非常に本質的なものであると、確信します。
そこを埋めようとするよりも、それを大事にします、そこにいようとします。
それと親しみたくなります。
そこが全てになります。
いつでも行けますね、そこに。
テレビをつけるのをやめて、SNSを覗くのをやめて、そこを埋める行為を全てやめて、ただ単にそこに行きましょう。
空しさは避けるべき存在ではなく、帰るべき存在。
まずは一度、芯から空しさに向き合ってごらんなさい。
芯からそこに赴いてごらんなさい。
想像を超えた世界は、本当にあるのです。
しかもこんなにすぐそばに。
いつも、あなたと共に。
これを見逃す手はありません。
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