何か「わからなくてはいけないこと」は、ありません。
わかる必要はないのです。
わからなくてもいいのです。
わかろうがわかるまいが、物事はただ流れていきます。
わかろうがわかるまいが、関係ないのです。
わからなくてはいけないことは、何もありません。
「わからなくてはいけない」という思いがあるなら、放棄してしまって結構です。
わかろうとすることは、もう捨ててしまってください。
では、わかるのではなく、何をするのか。
それは、実際に「そうである」ことです。
実際に、そうであることが重要です。
それは、努力とか勉強とか何かを身につけるとか、そういうことではありません。
ただ単に、そうである、だけです。
そう「なる」のではなく、そう「ある」のです。
…
人はいろいろなものに「なる」ことができるかもしれませんが、「なる」というのは、目に見える形、現れです。
「なる」以前の「ある」。
あるはあるでしかありません。
「なる」は、大工さん、シェフ、会社員、社長、有名人、無名人、一流、三流、いろんな形を取りますが、「ある」は「ある」だけです。
「ある」の結果として、いろいろなものに「なり」ます。
人は皆「ある」であるはずです。
でも、どう「なる」かにいつも意識が向けられているので、「ある」が閑却されています。
「ある」を無視して、どう「なる」かばかり、いつも考えています。
あってください、ひたすら。
なるは勝手についてきます。
自分のあり方に、意識を向けてください。
いつでもありさえすれば、ものごとは勝手についてきます。
あることが、うまくいく秘訣なのです。
だから、「わかる」とかは、どうでもいいのです。
わかってもわからなくても、「あり」さえすればいいのです。
皆さん、なんとかわかろう、なんとか理解しようとしますが、それは的を外しています。
わかることによって物事がうまくいくわけではないのです。
もちろん、わかることによって、何かが進んだり、変化したりもするでしょう。
しかし、それらは全て「わかる」と同じレベル、つまり目に見える現象のレベルにおいての話です。
現象はあくまで現象であって、それをどうこうしたからといって、焼け石に水みたいな話です。
「だから何?」ということです。
現象は次から次に現れては消えます。
そんな一時的なものにご執心していても、かなりエネルギーの無駄でしょう。
何かがどうなったといっても、あっという間に終わってしまうんですよ。
常に常に、何かをどうこうし続けていなくてはいけないじゃないですか。
そんなの疲れますよね。
「あり」さえすれば、物事は勝手に流れます。
まあ楽ですよね。
何もしないのです。
物事は勝手に起こって流れるのです。
…
焼け石に水の喩えでいうならば、焼け石になりましょう、という話です。
水をかける側ではなく。
焼け石にせっせと水をかけても、一瞬で蒸発します。
焼け石はどんな水がかかってきても、一瞬で蒸発させてしまいます。
どっちの側になりたいですか?
全く同じ出来事が、見る側によって180°違う出来事になります。
水をかけ続けますか?
それとも水を蒸発させ続けますか?
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