我々は何を見ているかというと、現象ですね。
あれやこれやそれ、全部現象ですね。
会社で言われたこと、買い物の店先の品々、恋人と観た映画、深く考えさせられた出来事、ツイッターのつぶやき、ニュース映像、嫌なこと、嬉しかったこと。
全部「現象」です。
逆に現象以外を知りません。
現象以外に何があるの?って感じです。
現象の中で現象を見ながら一喜一憂しているのが、普通の人の人生と呼ばれるものです。
現象を見ている時、視界はそれでいっぱいになります。
それは映画館の座席でスクリーンを見ているようなものです。
完全にその中に入り込んでいます。
それはつまり、対象との距離が「近い」ということです。
近視眼的です。
それで視界がいっぱい、他のことは考えられない、という感じです。
その視点を、ずーっと引いていったらどうでしょう。
ずーっとずーっと、引いていくのです。
映画館で見ているスクリーンを、ずーっと引いていって、50m、100m、1km、10km、100km、1光年、10光年、100億光年と引いていったらどうでしょう。
もう「見えない」ですよね。
スクリーンはもはや点ですらありません。
その位置からだともう、映画の世界には入り込めないですよね。
そのくらい引いた位置から見て感じることは、何でしょう?
「何も感じない」ですね。
そういうことです。
「無」です。
同じ現象を見ていても、思いっきり首を突っ込んでのめり込んでいるのと、グーンと引いて眺めるのでは、全く違って見えます。
ぐーっと引いた時に見える見え方、その時見える景色。
それがすなわち、悟りみたいなものです。
全体像が見えるわけです。
全体像はもはや「無」であり、何でもないものです。
それは、個別の事項に思いっきり首を突っ込んでそこだけにまみれていると全然見えない景色であり、想像さえできない景色です。
「引く」っていうことです、「離れる」ということです。
「行く」とか「前に進める」とは逆です。
普通の発想だと、物事を進行させる、前に進める、みたいに思いがちですが、その逆です。
ファーっと離れていくのです。
どこにもくっつかないのです。
どんな立場も取らないのです。
ファーっと浮遊して拡散していくのです。
グイグイ突っ込んで、グイグイ推し進めるのとは反対の感覚です。
楽だし、簡単だし、普通です。
楽で簡単で普通のことが、本当のことです。
本当のことがつまり真実です。
そして真実を知ることが、悟りです。
真実は血眼になって探し求めるものではなく、そのままにしておくとき、すでにそこにあるものです。
真実とはつまり、簡単でシンプルなものです。
そこにいる時、もはや各現象ごとの一喜一憂はありません。
そういうレベルではないのです。
その人はもう、各現象に一喜一憂するレベルにいないのです。
「ほう、なるほど」と眺めています。
各現象を、ただ眺めています。
何もすることはなく、自由です。
揺蕩うているだけですから。
風が吹いたら風が吹くままに流れ、水が流れたらその流れのままに流れる。
抵抗はありません。
抵抗するとしんどいですが、抵抗しないとしんどくありません。
抵抗するのはなんでかっていうと、こだわりを守るためです。
こだわりがなければ、抵抗はありません。
何でもいい時、自由があります。
離れて見ると、各事項はもはや点であり、無です。
それらについて何の愛着もこだわりもありません。
すでにそれらはどうでもいいものであり、何であろうと同列です。
もはや各事項に優劣はありません。
好き嫌いもありません。
「無」です。
何だっていいし、どうだっていいのです。
「ふーんそうなんだ」くらいのものです。
自由です。
心の自由です。
心の自由にいる時、人はどうなるでしょう。
「幸福」です。
何でもいいし、どうでもいい。
全てが許されている。
全てがそのままであるとき、それはすなわち幸福です。
簡単すぎてビビりませんか?
最初からすでに幸福だったって、ちょっと驚愕ではないですか?
今までの頑張りは何だったのかって。
頑張れば頑張るほど、逃げていく。
奮闘すればするほど、疲れる。
そのまんまです。(笑)
頑張れば頑張るほど、本来の「そのまま」はめちゃめちゃになり、そして自分は疲れます。
あまりにもそのまんまです。
リンゴがリンゴであるのと同じくらい、そのまんまです。
こんな当たり前なことよく見逃がせるなぁと、逆にビビります。
そのままにしておけばそれでいいんです。
つまり、何もしないということ。
何もしない時に最も幸せ。
究極のパラドックスですね。(笑)
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