本当に欲しいものは何?

痛み、恐怖、不安。

それらは確かにあります。

ありありと感じられます。

それに意識を向ければ、それは確かにありありと、感じられます。

 

あなたは何を望んでいるのでしょうか。

痛みを感じることを望んでいるのでしょうか。

不安にさいなまれるのを望んでいるのでしょうか。

 

望んでいないなら、それに意識を向けるのは、やめましょう。

 

誰だってネガティブな感情は感じたくありません。

それならそれにフォーカスを合わせるのを、やめましょう。

 

「やめたくてもやめられない」

それはあるかもしれませんね。

ヘビに睨まれたカエルのように、そこから目をそらすことができない。

そういうことも、あるでしょう。

 

でも、まずは気づいてください。

「あ、ネガティブにフォーカスを合わせているな」と。

望んでいないものに焦点を当てているなと。

 

そこに気づいたなら、今度はそこから違うところへ、焦点を合わせ直すことが可能です。

 

それでもやはり、気がつくとまた、ネガティブに焦点が合っていることでしょう。

その時はまた、気づいてください。

何度でも、気づいてください。

 

そして、自分が本当に望むものへと、焦点を合わせ続けてください。

何度でも、何度でも。

あなたが本当に望むなら。

 

 

人は本当は、豊かに生きたいはずです。

幸せに生きたいはずです。

では、ストレートにそれを希求しましょう。

何の回り道もいりません。

ストレートに、ダイレクトに、最も欲しいものに、フォーカスを合わせましょう。

 

 

あなたの欲しいもの。

本当に欲しいもの。

それは何ですか?

自分に正直に、トコトン正直に、問うてみましょう。

本当に欲しいものは何ですか?

 

あなたが欲しいのは、特定の何かではありませんね。

特定の何かが欲しいのは、それがあなたの欲しいものをもたらしてくれる「中間媒体」だと信じているからですね。

お金、地位、恋人、モノ、コト。

 

本当に欲しいのは、それじゃありませんね。

「その先にあるもの」が、本当に欲しいものですね。

例えば、幸せ、安心、豊かさ、健康、満足。

 

しかし、ここで止まることなく、さらにその先に行ってみましょう。

行けるところまで行ってみましょう。

本当に欲しいものは何か。

 

 

さて、トコトン突き詰めると、あなたが最終的に欲しいのは、「欲しいをやめる」ではないですか。

「あれが欲しい、これが欲しい」から解放されることではないですか。

「欲しい」がなくなれば、全て解決ではないですか?

 

「確かにそうかもしれない。でもやっぱり、欲しいものは欲しい」

 

その「でもやっぱり」がなくなれば、そこから解放されれば、全て解決ではないですか?

「でもやっぱり」という、どこまでもへばり付く執着から解放されれば、全て解決ではないですか?

 

「確かにそうだけど、でも…」

 

その「でも…」から解放されれば、それが最終的な解決ではないですか。

 

「でも…」「やっぱり…」「どうしても…」

そのしつこい執着から解放されることが、真にあなたが欲しいものではないですか?

 

 

解放です。

真にあなたが求めているのは、解放です。

自由です。

 

何かを掴むこと、何かに執着することによって、あなたが得るのは「不自由」です。

それに縛られる、ということです。

欲しいものと引き換えに、あなたは不自由を手にします。

欲しいものがたくさんあるなら、欲求がたくさんあるなら、あなたはたくさん縛られ、たくさん不自由になります。

 

何かを掴まえているその執着によって、そのままあなたが掴まっています。

掴まえているその執着を放せば、そのままあなたも解放されます。

 

真に自由が欲しいならば、なるべくたくさん手放すことです。

 

 

放す、放す、放す。

 

とても簡単なことです。

「掴む」よりもとても、簡単なことです。

 

でも現実は、放すという簡単なことのほうが難しく、掴むという難しいことのほうが簡単です。

なぜでしょう?

 

それは人間の生理的・生物学的性質によるものが大きいでしょう。

生存本能、危険を避け、快適に命をながらえたいという欲求。

他者に抜きん出たいという欲求。

認められたい欲求。

それら生理的な欲求が、生物的存在である人間に、備わっています。

人として生きている以上は、それらの本能から逃れることは、できません。

 

欲求とは全て、何かを「したい」です。

「掴みたい」という衝動です。

安全な場所、快適な環境、守ってくれる人。

それらを獲得し、しがみついていたい。

安全に快適に、命をながらえていたい。

 

それらを手放すなんて、とてもできそうにありません。

それは「死」を意味します。

失うこと。

それは「死」です。

 

一度死んだ人が強いのは、そいういうことです。

もう何も失うものがない人ほど、強いものはありません。

守るべき何物もない、しがみつくべき何物もない。

「無」であり「自由」である人。

これほど強い人は、いません。

 

それは、清水の舞台から飛び降りるような恐怖かもしれません。

「死」ほど怖いものはありません。

生物である人間をやめるようなことですから。

 

人はそんな「死」を、肉体の死を待たずに実行することができます。

あるいは、多大な喪失によって、ほとんど強制的に体験させられることもあります。

そして生きている間に死ぬことによって、人は新たに生まれ変わることができます。

 

人が本当に求めているのは、それです。

人が最終的に求めているのは、本当の自分に生まれ変わることです。

 

 

人は必ず死にます。

物理的な身体が死ぬのはもちろんですが、生きている間にも死ぬことができます。

 

それは「全てを捨てる」ということです。

 

今まで溜め込んだ、あなたとあなたにまつわる全て。

それらを全部捨てる、ということです。

物理的に捨てるのではなく、執着を手放すのです。

それはつまり、今までのあなたの死です。

 

そして、そこから生まれ変わります。

真のあなたとして。

 

生まれ変わるには、一度死ななくてはなりません。

全てを手放さなくてはなりません。

 

全てを手放すと、後に残るのは何でしょうか。

それは「何もない」です。

「無」です。

 

そこから、真のあなたが湧き起こります。

生命は「作る」ものではなく、「湧き起こる」ものです。

いままで「作って」きた全てを捨て、無に還ると、そこから自然と本来のあなたが湧き起こります。

 

あなたはそれを、選択することができます。

いつ、どの瞬間でも、選択することができます。

 

それは清水の舞台から飛び降りるような選択かもしれません。

火の輪をくぐるような恐怖かもしれません。

でも実際にやることは、握り締めている拳を緩めるような、とても簡単なことです。

怖いかもしれませんが、簡単なことです。

 

そしてその選択をすることは、いつでも、今この瞬間でも可能です。

 

真実への扉は、いついかなる瞬間にも、あなたに向かって開かれています。

あとはあなたが何にフォーカスを向けるか。

あなたの選択次第です。

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