「ない」を見たとき、どのような感想が思い浮かびますか?

前回の記事でご質問いただきました件、ハタと意味が理解できましたので、そのことについて書きます。

 

「ない」

あれもそれもこれも、よーく見ていくと「ない」にたどり着く。

物理的にも、目に見えるものを原子レベルまで見ていくと、実際は隙間だらけで、ほとんど無いに等しいという話は、聞いたことがあるかもしれません。

そして、その原子や分子も、結局はひもであったり振動であったり、最終的にはよくわからないあやふやに帰するという話も聞いたような気がします。(あやふや笑)

 

つまり、よくよくみると、「ない」のです。

あるように「見えている」だけで、実際の実際は、何もありません。

何もないところを「ある」という想定で動いているのです、私たちは。

よくよく見ていくと、誰もがそこに行き着くはずです。

 

そしてその「ない」に対する感想が、人によって千差万別だということに気が付きました。

あなたは「ない」を見た時、どのような感想が浮かびますか?

 

「ない」は動かしがたい事実です。

それは誰もが認めざるを得ない、事実です。

しかし、その事実を目の前にした時、人によってさまざまな感想が浮かびます。

 

「ない」のはイヤだ、「ある」がいい。

 

これは最も一般的な感想かもしれません。

この感想が浮かぶ背景には、今まで生きてきた価値観が影響しています。

0点より100点がいい。

1円より100万円がいい。

無いよりあるほうがいい、それもできるだけたくさん。

これは普通の発想です。

ごく普通の発想です。

その流れで、何もないより、ある方がいい。

と、こうくるワケですね。

 

ここが多くの人にとっての引っ掛かりです。

うん、無いね。それはわかった。でもそんなのイヤだ、と。

 

しかしです。

ここで言っている「ない」は、ある・ないの対比における「ない」ではありません。

テーブルの上にリンゴがある、リンゴを食べたらリンゴが無くなった、という、そういうある・ないではありません。

ここで言う「ない」は、その中に全部がある「ない」です。

ある・ないで言ったら、むしろ「ある」なのです、その「ない」は。(笑)

その「ない」の中に、全てがあります。

だから宗教は、その「ない」のことを、全知全能の神と言ったりします。

 

つまり、あるかないかの「ない」として「ない」を捉えているとしたら、それは捉え間違いということです。

本当の「ない」を捉えたとしたら、そんなのイヤだ、なんて感想が浮かぶはずありません。

イヤとか好きとか、そういうレベルの話ではないのです。

好きとか嫌いとか、欲しいとか欲しくないとか、そういう人間的な感情は脇に置いといて、ただ単にシンプルに、その事実を見たなら、

「わぉ」

そんな感じの感想が浮かび上がるはずです。

なぜなら「わぉ」としか言いようがないからです。(笑)

あるいは全く黙るしかない、というパターンもあるでしょう。

いずれにしても、日常のレベル感とは全く別次元の世界線です。

 

この感覚が日常生活に影響を及ぼすとしたら、それは個々の事象の重みが消える、ということですね。

「どうでもよくなる」と言い換えてもいいでしょう。

なぜなら結局「ない」のだから。

 

人生って思っていたほど重いものではありませんでした。

心が軽くなるって、嬉しいことですね。

街を〜歩く〜こころ〜軽く〜

心軽く、気楽に人生を楽しみましょう。

 

 

つまり、「取り違え問題」です。

ないとは、ある・ないの「ない」ではなく、その中で全てのあるが展開している場です。

「ない」からこそ、あらゆる「ある」が展開できます。

何の規制もない、底抜けの自由です。

何の引っ掛かりもありません。

だから全ての可能性が、展開しうるのです。

 

「ない」が本当にないではなく、何かしらの「ある」があるとしたら、それはもう「ない」ではあり得ません。

あれはいいけど、これはダメ。

宇宙はそんなこといいません。

あるものが、あるがままに、展開しています。

生きるも自由、死ぬも自由。

何の規制も強制もなく、全てが許されている。

 

この、「あるものが、あるままに、ある」という事実をあらためて確認してみてください。

仕事の懸案とか、将来の心配事とか、いったん脇に置いといて、シンプルにこの事実に触れてみてください。

凝り固まって何かに集中していた精神が、ファーっと霧散していくような感覚はありませんか?

凝り固まっているから、重量を得ます。

霧散すると、重量が消えます。

つまり、軽くなります。

 

感覚で捉えましょう。

分かろうとするのではなく、ただ単に、事実を見るのです。

それは理解するものではなく、見たまんまのことです。

 

 

コメント

  1. ピヨ より:

    はい!「ない」からこそ、あらゆる「ある」が展開する、、、本当にそうですよね!
    まるで私のために書いてくださった記事(笑)、ありがとうございます。
    私も、ない、を見た時、わお、でした。
    そのまま絶句しておけば良かったものを、いじり倒したい欲にかられ、ない、を相手に無駄に戦い、日々肩透かしをくらっていました。
    自作自演の負け戦ですね。

    岡潔さんという数学者の著作の中に
    「多くの人は、自分の中に心があると思っているが、私は、心の中に自分がいる、と思っている」
    といった趣旨の言葉があります。
    「ない」との戦いを放り投げて、充溢した「ない」に安住しかけていた私は、その言葉に蹴つまづいたのです。
    ない、は、ない。空っぽ。爽やか。
    ある、は、ある。ただ、あるものがある。あれっ?
    「ない」は何もないということで、スッキリかたがついていたのに、「ある」は?本当の本当に究極的には何があるんだい?と。
    心の中に自分がいる?
    そのココロは?
    神仏、宇宙、宇宙意志、意、大自然、、、名称はともかくとして、心は、、、あるかも。
    心って最も「なさそう」にしてるやつだけど。
    でも、心の中に自分が、、、いるよ、確かにそんな気が、、、。
    こんな具合に理解を超えて納得した、気がしたのです。
    ちなみに、その心の正体は「慈悲」なのではないかと推測、というか勘繰っています。

    だから、ないもののことで喧嘩なんてしないで、ないものを奪い合う争いなんてしないで、本当にあるものを観ようよ、という逆説にたどり着いたところで、あなたの記事に出合い、やっぱり、ないものはなくて、あるものだけがある、という事実の安らかさが、自由で軽やかなんだよなあと。が、次の瞬間、また私の究極の「あるある」根性が、むくむくと頭をもたげてくるのです。

    わかりにくい長文ですみません。
    もし、何か思うところがおありでしたら、返信いただけますと幸いです。

    • こーへ より:

      はい、あなたに頂いたご質問の返答として書きました。皆さんにも意味のあることだと思いましたので。
      ご質問いただけると、自分では思ってもみない視点が開けるので、大変助かります。m(_ _)m

      さて、今回いただいた文章ですけど、そうですね、さっぱりわかりません。(笑)
      しかしですね、そのようにあなたオリジナルの展開が展開できているのは、実に実質が「ない」であるからというのが、今回の記事の趣旨でもあります。

      多くの人は個々の「展開」にばかり目がいって、その展開が展開できているその理由には目が行きませんが、そっちに目をやるとファっとほどけますよ、というのが、だいたいこのブログで言っているようなことになります。
      展開そのものと、その展開が展開する「場」。

      あなたがいまここで展開したその文章。
      それはどこに展開していますか?
      なぜそのように、あなたオリジナルの展開が、今この場で展開しましたか?
      展開そのものではなく、展開が展開する様を見ると、次の展開がひらけてくるかもしれません。(笑)

  2. ピヨ より:

    自分でも意味不明な問い(笑)にお答え下さり、ありがとうございます!
    展開の場と展開の理由。
    そうか、展開が展開出来るのは、何もないからですね〜。
    ただ、展開を観察していると、私の頭の中には、軽快な♫おぉシャンゼリゼ♫ではなく、なぜか、「やつらの足音のバラード(はじめ人間ギャートルズのエンディング曲)」の ♪なんにもない、なんにもない、まったくなんにもない♪ が流れて来ました。
    なんか、もの悲しいです(泣&笑)。
    あ〜ぁ、当たり前のことばかりなのに、なんだかなぁ〜、です。
    次の記事、楽しみにしています。

  3. ピヨ より:

    度々すみません。
    私は何をこんなにも悲しんでいるのか、一度きちんと文章してみようと思います。
    「ない」ことが悲しいのではありません。
    私自身は「ない」に気付けたことで、とても楽に生きています。
    でも、世界を見渡すと「ない」ものを「ある」と思い込んで人々が争ったり虐待したり騙したり利用したりしているではありませんか。
    それらの現象も「ない」と言えばないのですが、私だってとても苦しんだ、悲しんだ、痛い思いもした、争いもした、きっと彼らも、被害者も加害者も苦しんでいる、この苦しい思いはやはり「ある」のです。特に幼い子どもたちは、「ない」に気づくどころが、親が全てなのに餓死させられたり死ぬまで殴られたり。虐待する方だって本当は何もないないことを知らずに、そういう行為に突っ張る。戦争もしかり。
    こういう世界が(本当は世界すらないのかもしれませんが、少なくとも私の目には)ある。
    じゃあ、その「ある」ものの本質って何だろう?
    こういう風に、(実体はない)世の中を悲しむ私の心って何だろう?
    そこである言葉に触れたことをきっかけに逆転が生じて、私の心がその悲しみを感じているのではなく、何か大きな無限の心の中に私がいて、私が悲しいのは、その大きな心がきっと「慈悲」そのものだからだ、何かを慈しみ、共に悲しんでいるんだ、と思ったのです、と言うか、思いたいのです。
    だからどうする、ということは何もないですが、私は、本当はないであろうこの世界とともに心ゆくまで悲しめばいいんだな、って、、、。

    やはり、意味不明でしょうか?
    展開が展開する様を見ることを一旦脇に置いて、私の「ある」について書いてみました。

    わたしはこーへさんの文章が好きです。
    本当にそうだと思うことばかりだし、救われる人も多いと思います。
    世界中の人々に読んでほしい。

    • こーへ より:

      ご丁寧に恐縮です。
      苦しんでいる人をみて自分も苦しいということでしょうか。
      それはあなたの選択です。
      苦しむことを選択しているから、苦しい。そのまんまです。
      なにを選択してもいいこの世の中で、あえて苦しみを選択し、そして苦しんでいる。そういうことです。

      いや、自分が選択しようとしまいと、苦しんでいる人が世の中にいるのは事実ではないか。
      こうおっしゃると思いますが、それは事実ではありません。
      事実は「何もない」です。
      何もない中に、あなたがある事項を事実として構築しているということです。
      そして今あなたは、そのあなた内における事実を事実としてご説明された、と、この状況を客観的に説明するとそういうことです。

      おそらくあなたは、この苦しみをなんとかしたいと考えておられるのではないかと想像しますが、その苦しみを何とかする方法は、その苦しみを選択するのをやめる、ということです。
      ある事実を構築し、その事実にわき目もふらずにぶっこんでいる、というこの状況を客観的に確認することはできますか?
      そして、それを好まないことだと思ったなら、じゃあ好むことは何だろうと選択し直すことはできますか?

      あなたはいま自分内に展開している事実の中において解決する方法を模索しているのかもしれませんが、それは根本的な解決になり得ません。
      たとえ解決したとしても、また別の問題に取り組むことになり、延々その中でぐるぐると巡り続けることになるでしょう。
      今、自分の内に展開している事実は、だれにとっても等しい事実ではなく、自分だけのオリジナルの事実です。
      まずはそれを確認してみてください。

      これは、人間的な情動に従って行動しているうちは、わからないことです。
      自分オリジナルの事実に従って生きるのが人間です。
      国の争いも、自分だけの事実と自分だけの事実のぶつかり合いです。
      自分だけの事実に従って生きているうちは、苦しみや混乱はさけられません。
      そして人間であるうちは、自分オリジナルの事実から抜け出すことはできません。
      ですから、ありのままの事実を見るためには、いったん人間をやめ、虚心坦懐にありのままをそのまま見つめる必要があります。

      このブログを好きだとおっしゃっていただいているということは、あなたが目指しているのは結局そういう場所だと思いますよ。

  4. たこじろう より:

    ピヨさんがコメントしてくれたおかげで、また新しい記事を読むことができて嬉しいです。
    事実をありのままに見ていくと「ない」にたどりつくということを感じてみたいです。

    • こーへ より:

      コメントありがとうございます。
      過程を経て辿り着くというよりも、クルッとひっくり返るみたいにハッと気づくという感じでしょうか。
      本当に虚心坦懐ということだと思いますよ。
      人間的な感覚で何かを期待すると言うよりも、まっさらな目でそのまま見ると自動的にそう見えるという感じですね。

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