世界の素晴らしさとは一体何か

世界が素晴らしいとは、一体どういうことか。

世界が美しいとは、一体何のことを言っているのか。

 

普通はどっからどう見ても、そういう風には見えません。

一体何のたわごとを言っているのかと、そう思います。

 

しかし、本当のリアルを見れば、逆転します。

美しいが本当です。

素晴らしいが本当です。

それは「解釈」によって「そのように見る」のではなく、本当にリアルを見れば、ただ単にそう見えるということです。

そのように見えていないならば、実はそっちのほうが「解釈」によって世界を見ているということです。

真実ありのままを、解釈によってねじ曲げているということです。

 

逆なのです。まるっきり。

普通みなさんは、今自分が見ている見方が全てであり、正しいと100%思い込んでいますが、そうではありません。

みなさんの100%は、実はねじ曲げた解釈です。

解釈によってこの3次元世界に存在するわけですから、解釈があるのはいいのですが、それが100%だと思い込むことによって、真実から遠ざかります。

 

ただ単に事実を見ればわかること。

それが素晴らしさであり、美しさです。

 

それは、一般的な辞書的な意味での「素晴らしさ」や「美しさ」とは違います。

真実を見ればきっと辞書的な意味での「素晴らしさ」や「美しさ」を味わうのだろう、などと想像しても、それは違います。

より正確に言うならば、何も言えません。

言うべき言葉は、何もありません。

ただ、何も言わなければ何も伝わらないので、方便として「素晴らしさ」や「美しさ」という言葉を使っているだけです。

 

 

世界の真の姿とは何でしょうか。

それは、いろいろな要素が付着する前の原初の姿、元々の姿。

ありとあらゆる解釈、思考、モノやコトが付随する前。

最初からそこにあったもの。

 

どうやったらそれが見えるか?

それは見えています、常に。

それは世界の原子核みたいなものですから、それがなかったらそもそも世界が成立しません。

ないことなどあり得ません。

だから逆に、どうやったら見えていることに気づくか、どうやったら「それがそれ」と気づくことができるかと、そういう発想になります。

 

今見えているもの。

何でしょう、それは。

これは観念でも何でもなく、リアルに、ごく真っ直ぐにリアルな話です。

パソコンの画面ならそれ、スマホの画面ならそれ、窓、壁、扉、通りの往来、雑踏のざわつき、浮かんでは消える思考、楽しかった昨日のデート、悔しかった昨日の試験、退屈、不安、喜び、希望。

全部です。

ありとあらゆる全部です。

全部がそうです。

観念も思考も、考えられることも考えられないことも、目に見えることも見えないことも。

 

「存在」

 

それらと同列に、ただ存在でいてみてください。

ただ全てと同じ「存在」でいてみてください。

全てと繋がりますね。

存在ということで、全てと繋がります。

 

これは解釈ではありませんし、練習すればできるようになるとか、そういう話でもありません。

ただ単にそうだということです。

 

ただ単にそうであるものって何ですか?

「全部」ですよね。

全部が「そう」ですよね。

 

解釈しようとせず、理解しようとせず、ただ単に「そう」でいてみてください。

 

人はほっとくと自動的に、解釈しようとしたり、理解しようとします。

だから難しくなります。

それは解釈でも理解でもなく、「ただ単にそうであること」です。

ただ単にそうであることの「そうである性」は、あまりにも当たり前すぎて、逆に見えません。

「何かもっとすごいものであるはず」という予断が、簡単すぎるそれを簡単にスルーします。

 

それは「信じる」ことでもありません。

ただ単に見たままです。

目の前に見えているリンゴをリンゴだと「信じよう」なんて思いません。

それは、いま現に見えている通り、ただ単にリンゴです。

信じるのではなく、世界は現に、いま目に見えている通りです。

 

いま現に目の前に見えている世界が、醜く、暗く、厳しいというのならば、それはその通りです。

醜く、暗く、厳しい世界を、いかにハッピーなパラダイスに変換するかといった、そういう話ではありません。

醜く、暗く、厳しい世界そのままで、素晴らしく美しいのです。

 

おかしいでしょ? 辞書的な意味では。

「醜いのに美しいって何だよ」ってなるでしょ?

だから辞書的な意味とは全然違いますよ、という話です。

 

解釈じゃないんです、それは全然。

解釈以前の話です。

解釈はもう全然「行き過ぎ」です。

 

だから「脱力」です。

だから頭をなんにも働かせないで、ボケっとするのです。

風呂やトイレでホッとゆるんだ時に、よくインスピレーションが湧くとか言いますよね。

あれです。

ホッとして手放した時に、ふと入ってくるもの。

コントロールを手放した時に自動的に向かう先。

それが真実です。

なぜならそれは、「元々あるもの」だからです。

 

原初の姿、元々の世界。

そこにいる時、自動的に真実が立ち現れます。

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