真実は「わかる」ものではありません。
「わかる」というのは、ひとつの解釈です。
「わかった!」と思ったそれは、ひとつの解釈です。
だから、わからなくてもいいです。
わかろうとしなくてもいいです。
わかろうとせず、ただ事実を、ただ見るだけです。
生まれたての赤ちゃんには、解釈はありません。
ただただ、世界があるようにあるだけです。
そこから成長とともに、世界を解釈しはじめます。
これはお母さん、これはお父さん、これはおうち。
これは僕のもの、これは人のもの、これは食べ物、これは遊ぶ物。
そして、解釈とともに生きるのが当たり前になります。
人間社会は解釈によって成り立っています。
学歴も解釈、経済活動も解釈、結婚も家族も解釈。
そして、当たり前のように解釈の中で生きるうちに、違和感を覚えるようになります。
なぜなら解釈は「本来」ではないからです。
「本来」の上に被せた被せ物が、解釈です。
そのニセモノ感に違和感を覚えます。
あなたの中の本来性が、本来性を呼ぶのです。
そこで探求が始まります。
真実は何なのか、この違和感は何なのか、と。
そして初めのうちは、やはり真実の「解釈」を試みます。
解釈の中で長年生きてきて、もう解釈することが板に付きすぎているのです。
真実を「捉えよう」とします、理解しようとします。
しかし真実は、理解する以前のもの、解釈する以前のものです。
理解や解釈で捉えるものではないのです。
むしろ、理解や解釈を施さなければ、全ては真実です。
この理解や解釈という長年の習慣、板に付きすぎている習慣を脱することが、難しいのです。
多くの人が、ここで引っかかります。
例えば、時間や空間は概念です。
事実において、そんなものはありません。
それは、概念の中にだけ存在するもので、実際そんなものはありません。
事実を見ればすぐにわかります。
事実は「今」しかないし、距離なんてものもありません。
見えているものが見えているようにあるだけで、「向こうにある」も概念だし、「ここにある」も概念です。
向こうもここもありません。
事実はただ、「ある」です。
「向こう」という概念、「ここ」という概念です。
解釈の中で生きている我々には、このことは理解できません。
文字通り、「理解」できるものではないからです。
解釈しないでありのままを見るということが、いかに難しいかがわかります。
かといって、不可能なことでは全然ありません。
なぜなら、そっちのほうが本来だからです。
解釈のほうが、いびつで不自然なことで、本来のほうが本来だからです。
本来へと戻ればいいのです。
あなたの中の本来性は、常に本来へと戻ろうとしています。
だから探求も起こります。
事実は何であるか、本当のことは何であるか。
常にそのことを心がけていてください。
自然と、本来に戻ります。
なぜなら、本来のほうが本来だからです。
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