現実の諸問題を解決することと、真実を知ることは、全く別のことと理解した方がいいでしょう。
真実を知れば現実の諸問題が解決される、だから真実を知りたい。
だとしたら、真実は何の腹の足しにもならないことを知るべきでしょう。
真実は三次元的な何物も解決しません。
真実は手段ではないし、レシピでもありません。
真実はただ真実です。
それとこれとは、全く没交渉です。
それなら別に真実なんて知らなくていい、というなら知る必要はありません。
欲しくないものを手に入れる必要はありません。
真実は、それを欲しいと思う人だけが手に入れればいいのです。
現世的な実利を得たいなら、そのためのハウツーが沢山あります。
それらを参考にすればよいでしょう。うまくいくかどうかは知りませんが。
…
現世的な実利。
それは最終段階であり、目に見えて、手で触れられるものです。
だからわかりやすい。
あれが欲しい、これが欲しいと簡単に言える。
真実。それはわかりにくいものです。
「あれ」や「これ」や「それ」などとは言えないものです。
だから欲しいという気にもなれない。
だってそもそも「それって何」というハナシだから。
それが何かもわからないんだから、欲しいかどうかもわからない。
じゃあなんで真実が欲しいと思うのかというと、現世的な実利に倦んだからです。
現世的な実利が「違う」と感じたからです。
そんな人いるの?
いるんです。あなたもそうでしょう?(笑)
現世的な実利。
それは楽しい。
もちろん楽しいし、面白い。
しかし、現世的な実利では最終的に解決され得ないポジションに来てしまったのです。
来てしまったのだからしょうがない。
先に行くには「その先」に行かなくてはいけない。
だから真実へと向かうのです。
それは三次元とは没交渉です。
そのことを知るべきでしょう。
真実に何も期待しないことです。
真実は期待に応えるようなものではないからです。
真実はただ単に真実であり、それ以上でも以下でもありません。
ただ「それ」というものです。
必要のない人には、犬のエサにもなり得ません。
それでも真実を知りたいのですかという、そういう話です。
…
人は真実へと向かう時、純粋に真実へと向かいます。
ただ単に知りたいのです。それがなんであるかが。
人はそういう風に出来ているのです。
それは、家に帰りたいという衝動に似ています。
遊んでて楽しい時には、家に帰りたいとは思いません。遊びに夢中です。
しかし、遊びに飽きる時が来るのです。
遊びに倦み疲れ、あたたかいお家でホッとくつろぎたい時が来るのです。
このタイミングは、人によって様々です。
まだ遊びが楽しい時に無理やり家に帰らされるのはツラいでしょう。
まだまだ遊び足りない人は、まだまだ遊んだらいいのです。
しかしヘトヘトに疲れ、いい加減もう帰りたいと思っている人が、まだまだ遊びに付き合わされるのも、ツラい話です。
そういう人は、家路へとついたらいいのです。
いずれにしても、何日もぶっとおしで遊び続けるのも疲れます。
どっかのタイミングで、いつかは帰りたいものです。
それが家というものです。
真実って本当に今の自分に必要かどうか。
それを知ることも大事でしょう。
やみくもに「なんかよさげ」くらいの気持ちでは、意味も分からないし、時間の無駄でしょう。
本当に今必要なのか、本当に今が自分にとって家に帰るタイミングなのか。
そんなことも考えてみてはいかがかと思った次第です。
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