人生とはつまり、「何か」ですね。
どこに住み、何を着て、どんな仕事をし、どんな人間関係があり、どんな出来事がありと、「何かであること」の集積がつまり、人生です。
生まれてから死ぬまでの間の、「何か」で埋め尽くされている期間。
それが人生です。
生きている限り、「何か」を無くすことはできません。
生きている限り、常に「何か」をまとっています。
しかし、人間の本質は「何でもない」ですね。
ベースとでも言いましょうか。
「何でもない」からこそ、「何か」で満たすことができます。
人生が「何か」であるのは、そのベースが「何でもない」だからですね。
一体何の話をしているのかというと、本質を見ましょうということです。(笑)
本質を一回見てみましょうよと。
人は必ずと言っていいほど「何か」に目を向けます。
他人の言動、世界の動向、職場の人間関係、着ている服、食べるもの、持っているもの、その他もろもろ。
いや、ほとんど「何か」にしか目を向けてないと言ってもいいでしょう。
「何か」にばかり目を向けているとどうなるか。
疲れます。
そして不安になります。
「何か」とは移ろうものであり、安心できるものではないからです。
というか、生きていると普通に疑問や空しさを感じるものです。
「自分はいったい何をやっているのか」とか、「何のために生きているのか」とか。
そうではないですか?
何の疑問もなく、ハッピーに能天気に生きてこれましたか?今まで。
なんにも考えてないような人でも、意外と考えているものです。
あきらめているような人でも、意外とあきらめてないものです。
なぜなら、そういう志向をするのが、人間という生き物だからです。
前へ進むのが、宇宙の運行だからです。
さらなる進化を志向するのが、人間です。
それは科学技術や生活の質といった分野だけでなく、「生き方」あるいは「生に対する捉え方」みたいな分野でもそうです。
「生きるって結局何なんだ」と、そんな疑問を持つことは、わりと普通のことです。
で、いろいろと情報に当たるわけですが、それらもやはり「何か」です。
この世界では「何か」を通して伝えたり伝えられたりするわけですから、当然です。
しかし「何か」では答えにならないわけです。
「何か」とは移ろうものだから。
そこで手に入るのは「答えのようなもの」です。
幻影と言ってもいいかもしれません。
答えを求めるとはつまり、確かさを求めるわけですが、「何か」はそもそもの性質として「確か」ではありません。
じゃあ何が確かなのかというと、「何でもない」となるわけです。
人生を知れるかどうかは、この「何でもない」に気づけるかどうかです。
それは情報ではありません。
だから、知ることではありません。
「気づくこと」ですね。
知識とか思考ではありません。
「何か」である人間が「何か」を使って「何でもない」に到達できるのか。
普通に疑問ですね。
確かに他人は「何か」ではあります。
しかし自分は「何か」ではありません。
自分は「何か」ではない、唯一のものです。
自分は「何か」ではなく、「何か」を捉えるものです。
あるいは「何か」が展開する場と言ってもいいでしょう。
どうでしょうか、そうではないですか?
自分は「何でもない」からこそ、「何か」で満たされている。
「何か」を捉えることができる。
そうではないですか?
この自分の「何でもなさ」に気づけますか?
自分を「何か」として取り扱ってると、それは永遠に「何でもない」にはたどり着けないでしょう。
しかし自分だけは、「何か」ではない唯一のものです。
だから人は、自分において「何でもない」に到達することができます。
今回の話はよくわからないという人も多いかもしれませんが、それはきっと「何か」を求めているからでしょうね。
みなさんは自分が求めているのは「何か」と思っているかもしれませんが、本当に求めているのは「何でもない」です。(笑)
「何か」にまみれていると「何でもない」が想像もできないですが、実際本質は「何でもない」です。
「何か」ではないもの。
「何でもない」とは何なのか。
そんな可能性に目を向けてみると、人生はくるっと変わるかもしれません。
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