探しているものはそこにはありません。
ネットにも無いし、本にも無いし、他人からの情報にもありません。
それは自分の中以外にはありえません。
どこかから得た情報をそれだと思ったなら、それは勘違いということで間違いありません。
探すことをやめるということです、探しているものはそこにはないからです。
取り入れた全部を捨ててしまうのです。
もういらないと。
もうなにもいらないと言ってみてください。
ある種の爽快感がそこには感じられないでしょうか。
全部捨ててサッパリする。
あースッキリした。
穢れ払いとでもいいましょうか。生まれ変わるとでもいいましょうか。
「何も無い」こそがそれです。
それは「何か」ではなかったのです。
それは真理でもないし、引き寄せでもないし、ワクワクでもありません。
「なんでもない」のです。
いえ、なんでもないの中に、それらがあります。
まず、なんでもないの中に入らないと、それらは得られないのです。
なんでもないの中に、全てがあります。
なんでもないの中に、どうやって入るか。
それは全てを捨てることです。
得よう得ようとする心の動きの逆を行って、捨ててしまうのです、全部。
難しさといえば、ここです。
普通の心の動きである「得よう」の逆を行かなきゃいけないのです。だから難しいのです。
でもそれは、意外と難しくありません。
心の中だけの問題です。感じ方の問題です。
もうなにもいらない、何もなくて全然いい、という「心持ち」でいいのです。なにも実際にゴミの日に何かを出したりとか、そんな行動は必要ありません。
この何も無い、全部捨てた、という時に湧き上がる感覚、それに着目してみてください。
ある種のパワーとも言えますし、無双感とも言えます。
失うものが何も無い人が強い、みたいな話がよくありますが、それに近いです。
何も無いと、逆にわきあがってくるのです。感覚が、パワーが。
余裕とも不敵とも言えそうですし、絶対大丈夫という確信とか安心感とも言えそうです。
その感覚をつかんで、その感覚と共に行動するのです。
絶対大丈夫という確信と共に行動すれば、それは絶対大丈夫です。
いえ、もはや結果などはどうでもいいのです。
単純に爽快であり、快活であり、愉快です。
何もいらないわけですから、結果もいりません。
結果を得るためにやっているわけではありません。
単純に爽快であり、快活であり、愉快です。
ザッツオールそれだけです。
それがまた愉快であり、爽快です。
そんなものに執着していない自分がまた、愉快であり、爽快です。
驚いたことに結果はついてきてしまいます。
そんなものいらないと言っているのに、「いえ、あなたについていきたいのです」と、結果のほうから追いかけてきます。
結果をぞろぞろと引き連れて歩くことになります。
「なんであの人はなんでもかんでもうまく行くのだ?」というのは、そういうことです。
結果なんていらないのです。
自分を開放できた喜びにまさる結果なぞありましょうか?
心底自分らしくいられる喜び以外に、何がいりますか?
「あなたがこの世でやるべきことは、最大限自分自身でいることだ」と誰かも言っていましたが、まさにその通りだと思います。
いらないものを全部捨てれば、自分自身しか残りません。
あなたが本当に欲しいのは、正しいメソッドでも効果のあるマントラでもなく、自分自身であるはずです。
あなたが本当に欲しいのは、「自分自身でいること」ではないですか?
コメント
ネットにも無いし、本にも無いし、他人からの情報にもありません。
ブログのコメントにもありません。
あなたが本当に欲しいのは、ブログを書くことではなく、自分自身であるはずです。
あなたが本当に欲しいのは、「自分自身でいること」ではないですか?
言ってることわかりますか?