認識や解釈ではなく、事実そのものを見てみましょう。
我々はものを見るとき、それそのものをダイレクトに見るのではなく、それについての認識や解釈を見ています。
例えば靴屋さんで靴を見るとき、かっこいいかどうか、似合うかどうか、高いか安いか、そういったことを見ています。
しかし、靴そのものをダイレクトに見たらどうでしょう。
それは、かっこいいもかっこ悪いもなく、似合うも似合わないもなく、高いも安いもありません。
ただの「それ」です。
もはや靴ですらありません。
今飲んでいるコーヒーは、うまいでもまずいでもなく、熱いでも冷たいでもなく、白でも茶色でもなく、味でも香りでもなく、ただの「それ」です。
もはやコーヒーですらありません。
認識や解釈が起こる以前の「それ」。
「何」とも言えないそれ。
それがいわゆる事実ですね。
事実とは、すでにある世界です。
本来の世界です。
我々は本来の世界を「解釈」しています。
「あれは何だろう」「これはどういうことだろう」と。
それがすなわち妄想です。
解釈が施される前の世界は、「何」でもありません。
それを直接、見てみましょう。
それはどんな世界でしょうか。
まず「問題」や「苦悩」なるものはありませんね。
問題や苦悩は、解釈のバッティングにすぎません。
解釈がすんなりといかない、何かひっかかる、というのが問題や苦悩です。
つまり、問題や苦悩なるものは、勝手に解釈を起こし、その解釈がうまくいかないと勝手にもがいているという、いわゆる独り相撲です。
解釈以前の世界に、そのようなものはありませんね。
問題や苦悩が無い。
では、愛や至福に溢れているのでしょうか?
そんなこともありません。
事実は「何」でもないのですから、愛や至福のような「何か」であるはずもありません。
じゃあ一体何か?
それを直接見てみてください。
今すぐ見れます。
解釈ではなく、それそのものを見れば、いつでも、どこでも、それは見れます。
それがもともとの世界であり、何一つ隠されていません。
全てがそれです。
ただそれを直接見ればいいのです。
といった言葉の説明も、あくまでひとつの「解釈」です。
言葉の説明を聞くよりも、あなたが直接見て、直接受け取ってください。
「それ」です。
コメント