人生のすべては、変わるものばかりです。
環境も変わる、考え方も変わる、付き合う人も変わる、体調も変わる。
そんな変わるものだらけの人生の中で、唯一変わらないものがあるとしたら、それはなんでしょうか。
それは、その変わらないものを「認識しているもの」ですね。
いろいろなものがいろいろに変わりますが、それが「変わった」と認識しなければ、どうやってそれが変わったと理解できるのでしょうか。
そこには変わらずに、変わるものを認識する存在がある、ということですね。
それについて普段は意識することはありません。
それよりも変わるものの方に、常に意識がいっています。
今日はその「変わらないもの」の方をよく見てみましょう。
変わらないもの
認識。
つまり、対象を「見ているもの」あるいは「感じ取っているもの」ですね。
その、「見ているもの」あるいは「感じ取っているもの」には、変化はありません。
見られる対象、感じられる対象、には変化があります。
雲は常に流れるし、思考は常に変化するし、日は昇りまた沈みます。
対象は一時も止まることなく、常に変化し続けています。
しかし、それを「見ている方」はどうでしょうか。
見ている方には、何の変化もありません。
ただ眺めるしか、ただ認識するしか為す術がないようです。
認識とは何か
そもそも、「認識」そのものに着目するとき、そこに何を見るでしょうか。
「何もない」ですね。
何も見えませんね。
認識それ自体には、認識できる何物もありません。
とても不思議ではないですか。
ごく身近に、こんな不思議なことがあるなんて、驚きではないですか。
ごく当たり前の日常に、こんな摩訶不思議が潜んでいたなんて、驚きです。
私たちが普段、当たり前のように行っている「認識」。
その認識自体を見ると、そこは無限の無です。
気づき
そこに気が付いた時、世界の見え方がちょっと変わりませんでしたか?
世界との間に、ちょっと距離ができたというか。
今までは認識している世界にどっぷりと浸かって、世界との距離が密着していましたが、今では世界との間に少し距離ができ、ある程度客観的に外の世界を眺められるというか。
その時、より世界のあるがままの姿(本来の姿)が見えるのではないでしょうか。
世界と密着し、世界の変化が自分の変化と一致していたころは、自分を守るために世界の変化との格闘が必要でした。
自分に都合の悪い変化には巻き込まれないように必死で抵抗し、自分に有益な変化には必死に食らいつこうとする。
「世界に翻弄されていた」ということですね。
どうですか? そんな感覚はないですか?
世界と離れると、世界の変化と自分自身が没交渉になります。
世界は世界で相変わらず変化しますが、それと自分とは無関係ということです。
それが何を意味するのかというと、より適切に世界を取り扱うことができる、ということです。
世界と密着していると、世界の変化は自分の変化です。
世界の危機は自分の危機であり、世界の安定は自分の安定です。
完全に世界に運命を握られている状態です。
しかしながら、世界の変化は自分でどうこうできるものではありません。
どうこうできないものをどうこうしようとしてもがいている。
それが今までの状態です。
しかし、世界の状態と自分は無関係なのです、本来。
「認識」という主体に立ち返ると、それが理解できます。
「見ているもの」と「見られているもの」という分離が、そこに起こるからです。
自分は本来「見ているもの」であり、「見られているもの(=世界)」ではないという理解が、そこに起こるからです。
本来の世界
自分と分離した、客観的な世界。
何の色付けもなく、何の予断もなく、安全に、落ち着いて、今なら眺めることができます。
自分の死活問題に密着していたら、それは落ち着いて眺めるなんてできません。
しかし今は違います。
安全に、おだやかに、あるがままの形を眺めることができます。
どう見えます? その時世界は。
笑っちゃうほど面白くないですか?
何でもいい、どうでもいい。だって自分と無関係だから。
という余裕があるとき、世界は単純に面白いです。
「へー!そうなんだ!」と思わず声をあげたくなるような驚きと新鮮さ。
まるっきり世界が違って見えるはずです。
それが本来の世界というわけです。
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