あきらめる勇気

人は何かを得ようとして頑張るわけですが、結局は何もない、ということに気が付きます。

頑張って欲しかったものを得たとしてもです。

頑張って一位になった、欲しかったものを手に入れた、目指していた成果を手に入れた。

その瞬間は完全な達成感に満たされますが、風が吹いて砂のお城が崩れるように、結局それらは何でもなかったと知らされてしまいます。

 

人はみな、何かを求めています。

何か完全に満たされた状態。

そういうものを欲して、あれやこれやと手を出しますが、何かこう完全にグリップした感覚、「これだ!」というものは、得られないままです。

得られたと思ったそれは、必ず一時的なものです。

瞬間の達成感を次から次に渡り歩くような生活になってしまいがちですが、そろそろ気づいてもいいはずです。

 

そんなものは「ない」んだと。

 

結局は「ない」。

その「ない」にいつ向き合うか。

ちゃんと向き合うまで、いつまでも「ない」を見せつけられる羽目になります。

 

金持ちだろうと貧乏だろうと関係ないです。生まれも育ちも関係ありません。

どんなに豪遊を繰り返しても、風に吹き飛ばされる砂のお城を繕っていることに変わりはありません。

瞬間の達成感を数珠つなぎにしても、本質的な解決にはなりません。

 

何をやっても「ない」に直面し、いくらよけても、見ないふりをしても、必ず「ない」がでてくる。

そう思いませんか?

 

結局「ない」が本質だからです。

あきらめるしかないのです、降参するしかないのです。

本質には、どうあがいても勝てません。

「ない」でいいじゃないかと、「ない」を認めるしかないのです。

 

よく考えてみてください。

「ない」でいいじゃありませんか?

というか「ない」こそが楽園ではありませんか?

何者でもない、何も持っていない、何も成し遂げていない。

お金もない、友達もない、誇るべき何物もない。

だから何なのです?

逆に、何かを持っていたからといって、だから何なのです?

 

「ない」に居れたら、何も必要ありません。

「ない」に安住できたら、何かが必要、ということはありません。

これって非常に安穏ではないですか?

 

我々は「ない」を非常に恐れますが、「ない」は実は楽園です。

「ない」からの逃避に、非常な時間とエネルギーを使いますが、「ない」にただ佇んでみてください。

「ない」はどうでしょうか? そんなに怖いものだったでしょうか。

 

「ない」は逃げても逃げ切れません、それは本質なので。

むしろ「ない」という永遠の楽園に誘ってくれているのです。

どんなに「ある」を追いかけても、風に飛んでいく砂のように、全てはなくなり、いつも「ない」だけがそこに残ります。

その事実を思い出してみてください。

そして、その「ない」とは一体何なんだと、一回腰を据えて覗き込んでみてください。

 

空しさを埋めるために何かをするのではなく、空しいままでいるのです。

空しさはイヤだと、すぐに逃げてしまうのではなく、先入観なく、その空しさを感じてみるのです。

 

これは、いつものやり方と全く逆なので、ほとんどの人にとって難しいことでしょう。

普通は何かを得るという方向に走りますが、逆の「捨てる」という方向です。

みんながわぁわぁと群がっているのに、自分だけ背を向けて「いりません」というのは、なかなか勇気がいることです。

だから難しいことではあるのですが、結局解決はそこにしかありません。

 

そう、ある意味「勇気」ですね。

いつもの惰性から脱して、本当のことは何なのかと見極める勇気。

本当のことはいつでも、ありありとそこに展開しています。ただ見ていないだけで。

 

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