日常がすなわち探求の旅

→(前回)苦しみと平安、そして真の幸せ

 

つまり、我々の普段やっていること、現象レベルでやっていることって、その上のレベルから見たら大したことないわけですね。

もう本当に、生きるか死ぬかの瀬戸際みたいなことも、ごく些細なことになるわけです。

そしたら「自分で実際に苦しんでないから、その苦しみがわからないんだ」という話にもなりますが、苦しみがわかる・わからないの話ではなく、それらが些細なことになってしまうポジションがある、という話です。

 

とてもとても苦しんでいるなら、それらが些細なことになってしまうポジションに行ってしまえばいいのではないでしょうか。

つまり、苦しみと一体化するのではなく、どんどんそこから離れる方向に行くのです。

何丁目何番地何号というごく小さなエリアに居るのではなく、東京都全体という大きなエリアに居場所を変えるのです。

そうすると、何丁目何番地何号が、ごく小さなエリアに見える、ということです。

 

苦しみから解放されたいならば、そこから離れるしかありません。

ずっと苦しみを握り締めていながら「楽になりたい」というのは、おかしな話です。

楽になりたかったら、それを手放して、離れていく方向に行くべきです。

少なくともそっちの方向を目指す、そのためにはどうすればいいかを考える、といったスタンスが必要です。

 

やりたくてもできないならば、なぜやりたくてもできないのか、落ち着いて丁寧に物事をほぐしていけば、かならずそっちの方向に向かっていくはずです。

ただ丁寧に事実をほぐしていけば、徐々にでも実態が明らかになるものを、いつまでも苦しい苦しいと言っているならば、それは思考停止ではありませんか?

「一体これはどういうことか」と、自分の手足で前に進んでいくしかありません。

ブログ記事や本や動画といった情報は、あくまで手助けで、実際は自分の手足で前に進むしかありません。

「そうしたい」という意志と、実際に手足を動かすことによって、物事は前に進んでいきます。

 

まずは自分の目で実態を見極めてみましょう。

自分は今何を感じていて、どうしてそう感じているのか。

自分は今何を求めていて、なぜそれを求めるのか、そしてどうやってそれを手に入れるのか。

虚心坦懐に、純粋にそれを求めましょう。

 

そう、純粋になる、ということが大事です。

そのときあなたは純粋なのです。

何を求めるかというよりも、その純粋な状態こそが、大事なのです。

何を得るかが問題ではなく、あなたが純粋であるかどうかが問題なのです。

 

ずっと探求をつづけているけども一向に楽にならないというならば、それは純度の問題です。

何十年も探求を続けて、何も変わっていないというならば、それはあなた自身の純度が何も変わっていないということです。

「何をどれだけやったか」ではなく、「どれだけ純度高くやったか」です。

仕事量ではなく、仕事のクオリティです。

クオリティをいかにピュアにするかが問題です。

 

純粋であるということは、「そのまま」ということです。

そのままということは、「本来の」ということです。

その本来に立ち返るということが、大事なのです。

 

本来に立ち返ったとき、元々の有様を見たとき、それは「それ以上無さ」です。

そこに居ましょう、そこに行きましょう。

求められているのは、本気の態度、純粋に見ること、素直に探ることです。

 

とても楽しい旅路ですよ。

わくわくするような探求です。

当たり前の中に潜む宝ですから。

当たり前に見ていたものが、見たこともないような宝なのですから。

秘密のヴェールが剥がされる時です。

 

ビジョンです。眼差しです。

しっかりと、やわらかく、素直に、そしてピュアに。

新しい探求を始めてください、わくわくする旅です。

今すぐ出発します、何の準備も要りません。

 

思い立ったが吉日。

さあ、あなたの旅はもう始まっています。

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