物事は丁寧に見ていけば、必ず解決するはずです。
何が、どうなっているのかを、深く丁寧に見ていけば、必ず腑に落ちるはずです。
なぜなら、世界はすでにそのようにあります。
すでにそのようにある、ということは、それでいいからそのようになっています。
苦しみ、不具合、不調は、その「それでよさ」に一致しないから、起こります。
なぜ一致しないのかというと、なぜそうなっているのかがわからないからです。
なぜそれがわからないのかというと、よく見ていないからです。
落ち着いて、深く丁寧に見れば、自ずと理解できます。
…
それは、何も隠されていません。
全ては目の前に、明々白々と提示されています。
何も隠されていません。
全ては明確に、クリアに、何の付加も間引きもなく、そのまんまが提示されています。
それがそのまんま、それです。
それをストレートに明確に見ることをせずに、もやっと、ぼんやりと、ふわっと、なんとなく見ています。
明確に物事を見るのではなく、「ああなってくれればいいのに」とか「なんでこうなのかな?」と、妄想や幻想の中で生きています。
「それがこうであったら」「それがそうなのはオカシイ」「それはつまりこういうことね」と、ズレた見方をしています。
いや、それはそれですよ! 見た通りそのまんまですよ!
…
なぜ人は事実から目をそらすのか、なぜ事実そのままを見ないのか。
それは事実がいやだからですね。
事実が気に入らないからですね。
そして事実のほうも、あなたに気に入られようとはしません。
このミスマッチ。
これが苦しみの源です。
「なんだ? 私のほうが事実に合わせなきゃならないのか!?」
いえ、合わせる必要はありません。
ただ、事実がそうであることを認めるだけです。
無理に好きになる必要はありません。
ただそうであることを見て、ただそうであると認識するだけです。
見ればわかります。
「あ、そうなんだね」って、わかります。
だってそれはそれですから。
犬が犬とわかるように、花が花とわかるように、事実が事実とわかります。
それは興ざめなくらい、ストレートで何でもないことです。
ただ認めましょう。
それがそうである様を、ただ認めてみましょう。
犬が犬であることを、花が花であることを、その状況がその状況であることを、あの人があの人であることを、私が私であることを。
問題すらも、認めましょう。
いやな気分も、不調も不具合も、ただ認めましょう。
それがそうである様を、ただ認めましょう。
…
その「認めている人」は誰ですか?
そんな人はいません。
「認めている人」は、概念です。
それすら認識の対象です。
それすら「認められるべきもの」です。
ただ「認識」だけです。
あるのはただ、認識だけです。
それは「人」ではないし、「何」でもありません。
「認識」が、ただ「起こっている」だけです。
わかること、ただわかる1つのことは「認識」だけです。
あなたは認識そのものです。 あなたは物ではないし、人でもありません。
あなたは認識です。
認識が起こっていることです。
認識以外のものがありますか?
事実の中で認識以外のものがありますか?
妄想すら認識です。
幻想すら認識です。
認識に軽重、高低、貴賎、良否がありえますか?
それはもう「何」とは言えないものですよね。
「何」とは言えないそれに、特徴も軽重もありません。
「何」とは言えないもの、つまり何でもないもの。
確定できないもの、認識できないもの。
…
認識自体を認識することはできません。
認識を認識するとは、認識という概念を認識しているのであって、認識自体を認識することはできません。
ただ起こることをひたすら認識しています。
「あ痛っ!」「あら~かわいいね」「おお寒っ」「うまい!」
目に映る色や形、耳に聞こえる様々な音、におい、感触、考え、思考、記憶、思い出。
世界は認識の中にあります。
世界の中に、あなたがいるのではありません。
あなたという認識の中に、世界はあります。
認識以外のものはありません。
「認識=世界」です。
「あなた=世界」です。
世界はただ世界としてあります。
あなたはただ世界としてあります。
もはや良いとか悪いとか、そういう話ではありません。
この世界をどうこうしようとか、そういう話ではありません。
世界はただの世界です。 どうこうするものではありません。
そうであるものをただそうであると認めるだけ。
世界はただ世界です。
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