正解を求めています、人は。
何が正しいか、何が正しくないか。
そして正しいことをしようとします。間違えないように。
「どれが正解?」
いつも探し回っています。
正解はあります。
あなたが正解だと確信したことが、正解です。
正解はありません。
絶対にこれが正しいということは、何一つありません。
正解はあるとも言えるし、無いとも言える。
どっちだ?
…
なぜ正解を求めるのかというと、結局のところ安心したいからです。
保証が欲しいのです、「それでいい」と。
正解を求める理由は、「それでいい」という安心が欲しいのです。
これを根本的に解決するには、どうすればいいか?
それは「それでよくなくてもいい」と理解することです。
だんだんトンチめいてきました。(笑)
それでいいという安心が欲しい。
しかし、正解はあるとも言えるし、無いとも言える。
なんともあやふや。
こうなったら「それでよくなくてもいい」と理解するしかない。
要するに、間違っていても何の問題もないと知ることですね。
…
これは簡単ですね。
実際に行き着くところまで辿っていけばいいのです。
宿題を忘れた→何か問題?
遅刻した→何か問題?
仕事で失敗した→何か問題?
仕事クビになった→何か問題?
何がどう転んだとしても、問題にはならないのです。
問題にはならないのです。
問題にしているのです。自分から。
それを「問題」としているのは、自分です。
自分がそれを問題にしなければ、それは問題ではありません。
自分がそれを問題としていることに気付いていない。
要はそういうことです。
…
これは非常に多いですね。
「気付いてない」ということ。
だからこういうブログを読むことにも、意味があると思います。
「あ、それ気付いてなかったわ」と気付けるから。
人生における要点は、「知らない」のではありません。
全部「気付いてない」のです。
知らなければならないことは、何一つありません。
全部「気付いてない」あるいは「忘れている」です。
「おかしいな」とか、「問題だな」とか、「どうもしっくりこないな」とか。
生きる中で何か釈然としない、スッキリとしないことが、よくあります。
それらは全部、単純に気付いていないか、見逃しているだけです。
落ち着いて、丁寧にそのことを見ていけば、全部紐解けるのです。
…
自然の生き物には皆、自己治癒能力が備わっています。
それを解決に使いましょう。
外に目を向けて気を紛らわせていても、解決しません。
外に解決方法を求めても、解決しません。
解決能力は、自らの内にあります。
外にヒントをもらったとしても、結局解決するのは、自分です。
最終的には自力でないと、解決しません。
なぜならその問題事を直接取り扱える立場にいるのは、自分だけだからです。
自分にしかそれはできません。
全部自分でできるのです。
どうやって?
それをぜひ、自分に聞いてみてください。
それを知っているのは自分だけです。
その周りをうろうろしたり、外に向かって探しに行くのではなく、直接それに向かい合えば、自ずと見えてきます。
何も隠されていません。
全てはそのままです。
予断や偏見を捨てれば、そのままがそのまま見えます。
ありのままがありのままとして、見えてきます。
汚れを落とし、意識をクリアにすれば、真の姿が見えます。
「気付いていない」ということは、「汚れを通して世界を見ている」ということです。
汚れを通しているから、見えないのです。
「ほら、これが汚れだよ」って指摘してもらえると、「ああそうか」となりますね。
そういう意味で、ブログを読んだり、外の情報を求めるのは、意義があります。
しかし、実際に「見る」のは、あくまで自分です。
他人が代わりに見ることは、できません。
そのポジションに立つのは、あくまで自分です。
…
正解のない世界をどう生きるか。
それは「自分」が知っています。
いうなれば「自分であること」が正解です。
人に聞いて回るのではなく、真摯に自分自身に問うてみましょう。
驚くべき自分の能力を発見するでしょう。
自分は全て知っていたと、いや、これは自分しか知り得ないだろうと、その時気付きます。
正解はここにあったと。
もうどこにも行く必要はないと。
今まであまりにも自分を低く見積もりすぎた。
自分なんて大したことないと思っていた。
他の人のほうがうんとすごいと。
しかし、それらのすごい人々は、どちらかといえば自分に含まれている。自分の一部だ。世界には自分しかいない。自分の中に世界は展開している。
的確に、ありのままに世界を見つめましょう。
世界を紐解いていきましょう。
それは何よりも面白く、わくわくすること。
世界が明かされる瞬間を、目撃しよう。
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