感覚に耳をすます時、わかることがあります。
それは、見えてはいるけれど見ていなかった。聞こえてはいるけれど聞いていなかった、ということです。
視界には入っている、耳には聞こえている。
ちゃんとそれらがあることは知っている。
でもちゃんとそれらに向き合ってみることはしていなかった、ということです。
では何に向き合っていたかというと、思考や感情です。
常に何か、考え事や想像や妄想や希望や不安など、そこには現に無い、事実ではないものに気を取られていた、ということです。
それもそのはずです。
今、目に見えているものや聞こえているものなんて、「だから何?」という感じです。
日常の見慣れた風景、日常の聞き慣れた音。
そこには何の感動もなければ、何の得るものもなく、まさに「何でもないもの」です。
あえてそこに集中する意味など、かけらも見出すことができません。
本当の美しさとは何でしょうか。
それは「何でもないもの」です。
「何か」であるならそれは何かであって、何か止まりです。
しかし、「何でもない」ならそれは無限で無窮で無条件で無制限です。
それらは常に、「見れば」そこにあります。
でも、見るのは難しいです。
なぜなら、そこにはない妄想や想像や思考ばかりを見ているからです。
ただ単に、そっちからこっちを見ればいいだけの話です。
そこには何も見えません。だって「何でもない」を見ているから。
普段見ている思考や妄想は「何か」なので、確かにある感じがします。
でも実際にはありません。
その思考や妄想をいま現に目の前に提示してくださいといわれても、できません。
なぜならそれらは現にないから。
では、現に見えているもの、聞こえているものはどうでしょうか。
それらはいま現に見えているし、聞こえています。
無いのではなく、あります。
それらは「事実」です。
無いものを見る目は鍛えられていますが、あるものを見る目は鍛えられていません。
妄想を見る目で事実を見ても、何も見えません。
なぜなら事実は妄想ではないから。
事実を見て、妄想と同じように、何か素敵なものや、意味や含蓄を見ようとします。
しかし事実は妄想ではないので、期待したような何物をも提示してくれません。
つまり、「何も見えない」となるのです。
妄想を見る目で事実を見ても、「何も見えない」となります。
事実を見る目で事実を見ないと、事実は見えません。
いや、事実を見る目というか、それはもう、ただ単に「見る」だけです。
確実に見えてはいます。なぜなら見た通りなので。寸分の狂いなく見た通りなので。
誰にだって見ることはできるし、現に今も見ています。
ただし、期待したような意味や妄想は何もありません。
このパラドックスめいた仕組みを頭に入れて、改めて「見て」みてください。
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