実際のところ瞑想は、全然むずかしいことではないし、全然大したことでもありません。
100mを5秒で走るとか、100億稼ぐとか、そういうことではないので、誰でも、いつでも、どこでもできるものです。
ただ、普段生活しているときとは全く違った感覚が、そこにはあります。
その感覚を逆に日常に取り込むことが、瞑想の効用ではないかと思っています。
要するに、全部捨ててしまうことです、日常的な感覚、思い、思考などなど。
捨てたら何もないはずなんだけど、捨てた時に何があるのかなと、そういう感じです。
感覚に集中するのは、捨てるための方便です。
受信に集中するとき、思考や感情はどっかにいってますからつまり「何もない」という感じです。
そしてその、「何もない」とはどういう感じなのかを知ってみる、というのが要は趣旨だと思います。
予想でも想像でもなく、「実際に」それは何であるかを知る、ということです。
そこに意味を見出すのは、日常的な感覚では難しいと思います。
普通の感覚では、「何もない=無意味」ですから。
実際、具体的に何かの役に立つわけではなく、特に意味のないことなので、その感覚は正しいです。
逆に、具体的に日常の何かに役立てたいという意識でやる時、それは難しいのではないかと思います。
期待した何物をも見出せないからです。
それは役に立つのではなく、結果的に役に立つ(かもしれない)、ということで、「役にたつから」というモチベーションでは難しいのではないかと個人的には思っています。
単純に、「それって何だろう」というシンプルな好奇心が、いちばんうまくいきやすいと思います。
何も期待せず、「え?何それ」っていう純粋な動機。
逆にそれがないなら、別にやることもないと思います。本当に別に何の役にも立たないし、意味もないので。
意味があるとしたら、意味がないことに意味があるんだなという感覚が知れることでしょうか。大事なのは意味じゃないんだな、という。
とにかく、これは大ごとではありません。
呼吸のようにシンプルなことです。
いつでも、どこでも、だれでもできることです。
この「気楽さ」は忘れない方がいいかなって思いました。
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