前回の瞑想編で、感じる練習がいいですよというお話をしました。
ご飯の味だったり、お風呂の温度だったり。
そういうわかりやすい一個のことを集中して味わうということに慣れてきたら、次のステップとして、全部をいっぺんに味わう、ということをやってみるとよいでしょう。
いま感じ取れる全てを、いっぺんに丸ごと感じ取るのです。
目で見えるもの、音、触れる感覚、匂い、全てです。
なにか一点に集中するのではなく、いま感じているものを全部まとめて一回で把握します。
視界に例えると、何か一点を集中して見ているよりも、ぼんやりと全体をまとめて見ている方が、隅っこの微細な動きも感知しやすい、みたいな感覚です。
どこにも集中せずに、全てに集中している感じです。
おそらく呼吸は太く、深く、静かに、ゆっくりとなるでしょう。
身体が騒がしいと繊細な音が聞き取れないからです。
「耳を澄ます」という言葉がありますが、それの全身版です。
「身体を澄ます」という感じです。
さらに推し進めると、「全身を研ぎ澄ます」という感じです。
やはりフィジカルと心は結びついています。
身体の変化がすなわち心の変化であり、心の変化がすなわち身体の変化です。
全身を研ぎ澄ますと、さらに深く透明になる感覚が得られるのではないかと思います。
このとき、非常に心を空しくしていないと把握できない、という感覚が生じるかと思います。
空しくすればするほど、入ってくる、みたいな。
スーッと静かに、落ち着いて静止していく感覚。
心がやかましいと何も入ってきません。
静かに落ち着いて、空しくしていると入ってきます。
何も無いときに全てがある、とはこれです。
無になればなるほど、全てはそこにあるのです。
これは感覚として感知できることです。
何も無ければ無いほど、満たされるのです。
その感覚をこそ、幸せと呼ぶのでしょう。
これ以外にあり得ないという絶対の確信が誰の感覚にも起こると思います。
とはいえ「全然わかんない」という人もいますよね。
このとき注意してもらいたいのは、その感覚を取りに行っていないか、ということです。
いや、その感覚が欲しいわけだから、と思うかもしれませんが、それは取りに行ってもどこにもありません。
そうではなく、やってくるのを受け入れるのです。
瞑想とは受信の練習です。
狩猟の練習ではありません。
根本的に態度が違う、ということです。
周りが与えるものを、ただキャッチするのです。
なるべく細大漏らさず。
「受け入れる」という態度で臨んでみてください。
何も期待せず、何も想定せず、ただひたすら受信に邁進してみてください。
すでにそこにあるものを、ただ受け取るだけなのです。
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