人は常に何かを欲していますね。
心の安らぎや平安、真の幸福や真実なるもの。
そういったものも「求められ」ています。
しかし、それらは求めることによっては、手に入りません。
それらは、「求めることをやめること」によって、手に入ります。
求めることをやめるとは、「求めないこと」とは違います。
求めるをやめると同時に、求めないもやめます。
「求める」とか「求めない」ではない場所、ということです。
そこに居て、求めるなら求めるを、求めないなら求めないを、ただ見守ります。
「する」立場ではなく、「見る」立場です。
何かがあるなら、何かをただ、見ている立場です。何もしません。
…
その場所に居れば、物事は「勝手に起こる」と言えるでしょう。なにもしないわけですから。
求めるも勝手に起こるし、求めないも勝手に起こります。
全ては、勝手に起こります。
その勝手に起こる様を、ただ見ています。
それは「降りる」ということに近いかもしれません。
鬼ごっこをやっていて「イチ抜けた」といって、その場を降りること。
その場の一員として、逃げたり追っかけたりして場に参加するのではなく、その場を降りて、その場の状況を見守る立場です。
人生という場に参加して、求めたり求められたり、惚れた腫れたと参加するのではなく、その場を降り、その場を見守る立場です。
それを選択しましょう、という話です。
そこでは事は自分が起こしているのではなく、勝手に起こっています。自分は居ないわけですから。
そしてそれをただ、見守っています。
いわゆる一般的な意味での「自分」はもちろん、場の中に居ます。
自分の「身体」とか「思考」とか「記憶」とか。
実際にこの世界に物理的に生きているわけですから、それはもちろんそうです。
その「自分」すら見守るのです。
つまり、一般的な意味で「自分」と思われていたものは、本当は自分ではなかったということです。
その「自分」すら見ているものが、むしろ本当の自分です。
その時自分はそこに居ないわけですから、楽です。
何もしないでただ見ているだけですから。
自分には関係のないことですから、苦しんだり悩んだりすることもありません。
…
それは、求めることによって手に入れるものではなく、「選択」です。
その立場を「選択」するのです。
その立場は、いつでもどこでも選択できるものです。
「求める」なんてものでは全然ありません。
「そうしたいからそうする」という、ただそれだけのものです。
何の物理的な手順もありません。
ノータイムでパッと、ただ選択するだけです。
今、この瞬間、ただ単に「降りる」だけです。
それは「欲しいものを手に入れる」ということでは全然ありません。
でも人は普通、欲しいものを手に入れることに熱心です。
だからその立場を、あえて選択しないのです。
そんなことより、「欲しいものを手に入れる」ということをやっていたいのです。
まだ「降り」たくないのです。
それはつまり、その人はまだその段階ではない、ということです。
…
人にはそれぞれ成長の段階があります。
子供のころ夢中で遊んでいたおもちゃには、大人になると見向きもしなくなります。
もうそういう段階ではないからです。
欲を満たすというゲームに夢中な人は、まだその段階なのです。
それはそれで結構なことです。
子供がおもちゃで遊んでいるからといって、だれも責めたりしません。
それはただその人にとって、そいういう段階だというだけのことですから。
でも人は必ず成長するので、遅かれ早かれそのゲームを降りる時がきます。
そうではないタイミングで、無理に選択をする必要はありません。
あなたはどうですか?
その選択をする準備ができましたか?
それともまだ、今までどおりの世界で遊んでいたいですか?
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