本来の「自分」というもの

「気持ち」というものは、自分自身ではありません。

その気持ちを「感じる主体」が自分です。

気持ちというものがあることよって、その気持ちを「感じている主体」の存在を確かめられます。

 

同様に、目に見えるもの、音に聞こえるもの、手に触れるものがあることによって、それらを感知している主体の存在を確認することができます。

 

つまり自分とは、相対的な存在です。

 

何かがあり、その何かが捉えられているということは、そこに捉える主体があるということ。

何かを感知する主体としてのみ、自分というものは確かめられます。

自分そのものは、影も形も無く、匂いも味もありません。

確固たるモノがあるわけではなく、周りを取り囲むものたちによって、相対的にその存在を窺い知ることができる。

自分というものは、状況証拠によってのみ、その存在が予想できるという、霞のような存在です。

 

つまり、自分という実体はありません

 

 

そのことを知った時、どんな気分がしますか。

ヘンな気分はしますね。

今まで「自分のために」とか「自分の人生が」とか、自分自分でやってきましたから。

 

これはつまり「解放」です。

今まで自分自分と握り締めていたものが霧散するわけですから。

あると思っていたものがない。

文字通りあると「思っていた」だけであって、実は無かった。

 

あるのはですね、目の前に見えているスマホの画面とか、部屋の壁とか、コーヒーカップです。

あとは気持ちとか思考とか思いとか。

そういうものはありますね。

現にあなた自身が捉えていますね、そういうものを。

 

では、それらを捉えているものを捉えることはできますか?

 

それはできませんね。

 

それらを捉えているものは、それらを捉えているというその事象からの推測によって、その存在を予想することはできますが、実際に見たり聞いたり手で触れたりはできません。

なぜなら、実際に見たり聞いたり手で触れたりできた時点で、それはすでに捉えるものではなく捉えられるものだからです。

 

自分とは「何か」ではなく、「何もない」だったのです。

 

このことを知ると、少し、いやだいぶ世界が違って見えます。

 

ただ捉える捉える捉える。

ただ認識認識認識。

それがすなわち自分、あるいは人生ということになります。

 

ただ目の前に流れている川を眺めている。

そういう感じですね。

 

今までは何かをしているという感覚でした。

むしろ川にバシャバシャと飛び込んで、魚を追いかけまわしたり、捕まえたり逃げられたり、岩に足をぶつけたりという。

でも実は何もしていませんでした。

いうなればその様子を岸辺で見ているというか。

誰かが何かををしている様子を認識している、ということです。

 

ここに他人と自分との決定的な違いがあります。

他人は「何か」であり捉える対象です。

自分はその何かを捉える「主体」です。

捉えられる側と、捉える側です。

正反対です。

 

今まで私たちは、自分自身をも「捉えられる側」において生活してきました。

自分なるものを捉え、「これが自分だ」という認識を構築し、それを自分だと考えていたのです。

しかしそれは「向こう側」のものです。つまり、捉えられる側の。

本当は私たちは皆、「捉える側」です。

全員、例外なく、その人にとっての「自分」とは何かといえば、何かを捉えている、その主体です。

 

その「自分」に居てみると、今までとは全く違った感覚になります。

「向こう」から「こちら」への転換です、言ってみれば。

 

まずフラットになりますね、ものの見方が。

比較ということが起きないので。

 

「向こう側」のものには、比較は起きます、当然。

優れている・優れていない、大きい・小さい。

しかし「こちら側」は、比較される対象ではなく、比較する主体です。

自分は優れている・優れていないではなく、自分とは、優れている・優れていないを認識する主体です。

自分自体には何の属性もないのです。比較のしようがありません。

自分は背が低いとかモテないとかいう認識における「自分」なるものは、向こう側に作り上げた対象物であり、「本来の自分」とは何の関係もないものです。

向こうとこっちは永遠に交わらないのです。根本的に次元が違います。

 

どうでしょう、本来の自分に居ると人生が変わると思いませんか?

それは変わります。根本的に変ります。

なぜならそこは、今までとは根本的に次元が違う場所だからです。

 

人生が本来の姿を取り戻すでしょう。

あるべきものがあるべき場所におさまるでしょう。

川は本来の流れを取り戻すでしょう。

 

いや、川の流れはもともと何も変わりませんね。

ただ濁流だ、氾濫だと「解釈」していただけなのです。

コメント

  1. Yoko より:

    いつもありがとうございます。

    今回もまた、かなりすっきりしました!また思わずコメントしております。
    ありがとうございます!

    言うなれば、霞・・・・。
    なんてわかりやすい・・・・

    もやもやした霞が晴れて、といいますか
    そもそも霞だったということがわかり、めちゃくちゃすっきりした気分です笑

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