「ない」をどのようにして見るか

最近よくコメントをいただけて嬉しいかぎりですが、

「ない」にたどりつくということを感じてみたいです。

というコメントをいただいて、ああ、まずはそこか、と思いましたので、「それを見る」ということについて書いてみたいと思います。

 

本当にそうですね。

見ているものは同じです。

見ているものは、今までと全く同じです。

その同じものが、全く違ったふうに見える。

あるいは、全く違った見え方をする。

それは見ている人の状態が変わった、ということですね。

 

ですから、何かをじーっとみて、何かが見えるのを待つのではなく、むしろそれを見ている人を見るべきです。(笑)

いったい誰が見ているのかと。

いったい何が見ているのかと。

 

見る主体を見るなんてことが可能なのか?

物理的には不可能ですね。

鏡を見たとしても、見ているのは鏡であって、自分ではありません。

 

ですから、感覚です。

見ている人を見るような感覚です。

そのとき自分は、見ている人(=人間)ではありません。

見ている人を見ている時、人間から遊離しています。

 

人間的な感覚では、それは見えないのです。

人間的な感覚だと、損得勘定や打算など、どうしてもある種の色眼鏡で見てしまいます。

何かが見えることを期待してしまったり。

そこで見えるのは、人間的な感情というフィルターを通した何かであって、素の状態ではなくなっています。

「それ」とは単純に、素の状態のことです。

 

人はそこに「何か」を期待しますが、それは実は「何でもない」です。(笑)

だから見えません。

「何か」を期待し、「何か」を見ようとするから、見えません。

 

それは「何でもない」なのです。

あまりにも何でもないだから、拍子抜けするのです。

「は?」って。

忽然とそれが見えたときにショックを受けるのは、ある意味拍子抜けのショックですね。

「ファ?」

 

それは常に見えています。

見えていない時などありません。

ただそれを、色眼鏡をかけて解釈しているのです。

「これは何かである」と解釈してしまっているのです、無意識に。

その解釈を外すには、その解釈をしながら見ている主体から離れる、つまり、その解釈をしている主体をみるポジションに行く、ということです。

 

なにか難しいことを言っているような感じになってきましたが、実は普段の私たちの方が難しいことをしていて、難しくやるのが当たり前になってしまっていることに気づいていないだけです。

何でもないことです。

別に何でもないことです。

それが見えたから人生が好転するわけでも、なにか大金持ちになれるわけでもありません。

何でもないことです。

何でもないことがすでにプレシャスだなということです。

プレシャスだなと思えることがプレシャスなのであって、何かがどうであることは関係ないのです。

だから、何かがどうであることを期待する人間心では、それは見えないのです。

 

一回人間をやめること。

一回人間を降りるのです。

感情や期待が自動的に出てきてしまうのはわかりますが、そこに乗っかるのではなく、一回降りてみるのです。

期待や感情を全部捨てて「何でもないもの」になれたとき、「何でもない」は見えます。

 

 

コメント

  1. たこじろう より:

    わー、こーへさん、私のコメントへの返信のようで、ありがたいです。
    何かを期待するというより、まっさらな目で見る、ですか。
    言葉として、表現するのには限界があることを少しでも分かりやすく言葉にしてくれて、ヒントを与えてくれるのが有難いです。まずは、意識して、まっさらな目で見るっつうことをやってみます。

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