無音があるから、あらゆる音楽が可能になります。
無音だからこそ、あらゆる音が「その音」として聞こえます。
無音がなかったら、音楽は存在することができません。
そして、音楽を聴くことが可能なように、無音を聴くことも可能です。
それはすなわち、何も聴こえてない状態、ということですね。
「ないを見る」ということも、これと同様です。
ないがあるからこそ、あらゆる物事がその物事として展開できます。
あらゆる物事の背景に、それをそれたらしめている「何もない」があります。
無音と同様に「何もない」ということも、理解できますね。
さて、
音楽を聴くことは楽しいですが、無音を聴くことは「だから何?」ってなりますね。
楽しい曲、悲しい曲、切ない曲。
音楽を聴くことはいろいろな気分をもたらしてくれますが、無音を聴くことは、何ももたらしてくれません。
だから、無音を積極的に聴こうとする人は、まずいません。
むしろ、よほどの物好きです。
同じく、「ない」を積極的に見ようとする人は、まずいません。
映画を観たり、旅行をしたり、デートをしたり。
面白いこと、楽しいことは積極的にやりますが、「ない」に触れようとする人は、よほどの物好きです。
さて、無音を聴いたとき、「だから何?」ってなりますね。
何の感想も出てこないというか。
ないを見たときもまた同様に、「だから何?」ってなりますね。
ないは見れますね、無音を聴くのと同様に。
しかし、「だから何?」となり、そこに重要な何物も見出せません。
そうです。
「ない」は、「だから何?」です。
あらゆる物事、あらゆる出来事は、「だから何?」の上に成り立っています。
あらゆる物事、あらゆる出来事の本質は、「だから何?」です。
もっともらしく見えても、重要なように見えても、その全ては「だから何?」で片付いてしまう、何でもないものです。(笑)
滑稽ではないですか?
あんなに夜も眠れないほど煩悶した事項が、実質は「だから何?」だったなんて。
よくよく見たら、
「無」という実質まで見透かすように物事を見たら、
「だから何?」まで透徹したら、
すべてはそこで終わりです。
すべては無に帰します。
目に見える表面ではなく、その奥まで見透かしたら、すべての実質は「何でもない」です。
無に対して「だから何?」と思いましたよね?
あなたが抱えている重要事項やら懸案事項は、その「だから何?」の上に成り立っているのです。
無音の存在なくして音楽が存在し得ないように、「だから何?」なくして物事は存在し得ません。
この感覚が浸透したら、とても強くなれます。
何に対しても「だから何?」と思えれば、とても強いと思いませんか?
すべてに対して、無に対するような感覚でいられれば、それはもはや、さとりを得た仙人のような感覚です。
すべてに対して、高低をつけることなくフラットに、ありのままに接することができます。
すべてをそのまま、受け入れることができます。
「それがそうであること」に、何の抵抗もありません。
そうなりたいと思っていた自分は、そんな感じではありませんか?
そしてそうなることは、とても簡単ではありませんか?
それはむしろ「何でもない」ことではありませんか?(笑)
コメント
何もないがベースになると、それ以外のもの、その辺の石ころも、ダイヤモンドも、すげー金持ちも、ホームレスも、美人もブサイクも、天才もバカも、何もかもが等価と考えることもできるのかな。
そうです。