この手の話でよく問われるのは、「起こることは全て決まっているのか」ということです。
起こることは全て決まっていて、自由意志を発揮する余地はないのか、それとも自由意志はあるのか、みたいな話ですね。
この問いに対する回答はですね、
「そんなこと知らん」
です。
回答になっていない?
いやいや、これ以上の回答はありません。
この問いで重要な点は、答え云々ではなく、「なぜその問いを発したのか」という、その動機の方です。
なぜこんなことを知りたいと思うのでしょうか。
その心理にこそ、本当の回答が隠されています。
…
なぜその問いを発しましたか?
それは、何かに頼りたい心理が働いているからですね。
本当に自分自身を生きていたら、そんな質問、出て来ようはずがありません。
そんなことに無関心です。
そんなことよりも、いかに自分自身を満たすかに忙しいのですから。
その質問の裏には、「何かや誰かに決めてもらいたい」という心理が見え隠れしています。
つまり、その質問を発している張本人は、「不安」です。
不安だから、そんな質問が出ます。
そして回答者も、そんな不安を解消するように、回答します。
質問者は不安だからそんな質問をしていると、わかっているから。
「これこれこうだから、こうなんですよ。だからあなたもこうしたほうがいいですよ」
「ははー、なるほど。合点承知の助です!」
なんて。
しかしですね、不安なんてものは、解消するものではありません。
そんなものはぶっとばすものです。
「この場合はどうなんですか?」「その場合はどうなんですか?」なんて、いちいち不安に付き合っていたらキリがないじゃないですか。
自分で決めろや。
その質問の回答は、自分で決めてください。
それでOKです。
「なぜそう言えるんですか?」
その回答も、自分で決めてOKです。
全部自分で決めてOKです。
その理由を、以下に書きます。
…
質問者と回答者の違いは何でしょうか。
それは、「物乞いをする人」と、「お恵みを与える人」です。
質問者は今、物乞いの立場を選んだ、ということです。
逆に今は質問者であっても、どこかで誰かに質問されれば、今度は与える立場になることもあるでしょう。
つまり、「今、その立場を選択した」。
この質問の意味は、そういうことです。
「選んでいる」のです、自分を。
どいういう自分であるかを。
この質問が出るということは、物乞いの立場を選んでいるということです。
なぜならこの質問の回答なんて、どうだっていいからです。
この質問に正答を得なければ明日死ぬとか、そういう切羽詰まったことはありません。
そして、この質問は正答を得たらとてもワクワクするという、そういう類の質問でもありません。
どちらかと言えば、不安だからそういう質問が出ているという類の質問です。
あるいは、ただの知的遊戯に近い、遊びのような質問です。
この質問は、ハッキリ言ってどうでもいい質問です。
この質問は、その回答がどうこうよりも、「なぜその質問が出るのか」に着目すべき質問です。
この質問を聞きたくなる、その心理に着目してみてください。
そのときあなたは何ですか?
そのときあなたは、何になっていますか?
「自分」が「何」であるかです、大事なことは。
質問の内容ではありませんし、質問の回答でもありません。
質問も回答も、単なるギャグです。
何でもないし、どうでもいいものです。
そんなことより、「自分」が「何」であるかが大事です。
その時あなたは、「何」ですか?
外に目をやるのではなく、自分に目をやりましょう。
今、自分が何であるかに。
「答え」なんてどうでもいいのです。
皆さん「答え」を求めますが、答えなんて究極どうでもいいのです。
つまり、「そんなこと知らん」が最も的を得た回答になるのです。
答えよりも大事なものを、見過ごさないでください。
「自分自身」です。
あなたは今、何ですか?
コメント
わからない時は「わからない」という現実を選んで生きている。わかると想像した途端にわかるんだ☺