「起こることは全て決まっているのか」に対する回答

この手の話でよく問われるのは、「起こることは全て決まっているのか」ということです。

起こることは全て決まっていて、自由意志を発揮する余地はないのか、それとも自由意志はあるのか、みたいな話ですね。

 

この問いに対する回答はですね、

「そんなこと知らん」

です。

 

回答になっていない?

いやいや、これ以上の回答はありません。

 

この問いで重要な点は、答え云々ではなく、「なぜその問いを発したのか」という、その動機の方です。

なぜこんなことを知りたいと思うのでしょうか。

その心理にこそ、本当の回答が隠されています。

 

 

なぜその問いを発しましたか?

それは、何かに頼りたい心理が働いているからですね。

本当に自分自身を生きていたら、そんな質問、出て来ようはずがありません。

そんなことに無関心です。

そんなことよりも、いかに自分自身を満たすかに忙しいのですから。

 

その質問の裏には、「何かや誰かに決めてもらいたい」という心理が見え隠れしています。

つまり、その質問を発している張本人は、「不安」です。

不安だから、そんな質問が出ます。

そして回答者も、そんな不安を解消するように、回答します。

質問者は不安だからそんな質問をしていると、わかっているから。

 

「これこれこうだから、こうなんですよ。だからあなたもこうしたほうがいいですよ」

「ははー、なるほど。合点承知の助です!」

なんて。

 

しかしですね、不安なんてものは、解消するものではありません。

そんなものはぶっとばすものです。

「この場合はどうなんですか?」「その場合はどうなんですか?」なんて、いちいち不安に付き合っていたらキリがないじゃないですか。

 

自分で決めろや。

 

その質問の回答は、自分で決めてください。

それでOKです。

「なぜそう言えるんですか?」

その回答も、自分で決めてOKです。

全部自分で決めてOKです。

 

その理由を、以下に書きます。

 

 

質問者と回答者の違いは何でしょうか。

それは、「物乞いをする人」と、「お恵みを与える人」です。

質問者は今、物乞いの立場を選んだ、ということです。

逆に今は質問者であっても、どこかで誰かに質問されれば、今度は与える立場になることもあるでしょう。

 

つまり、「今、その立場を選択した」。

この質問の意味は、そういうことです。

 

「選んでいる」のです、自分を。

どいういう自分であるかを。

この質問が出るということは、物乞いの立場を選んでいるということです。

なぜならこの質問の回答なんて、どうだっていいからです。

 

この質問に正答を得なければ明日死ぬとか、そういう切羽詰まったことはありません。

そして、この質問は正答を得たらとてもワクワクするという、そういう類の質問でもありません。

どちらかと言えば、不安だからそういう質問が出ているという類の質問です。

あるいは、ただの知的遊戯に近い、遊びのような質問です。

 

この質問は、ハッキリ言ってどうでもいい質問です。

この質問は、その回答がどうこうよりも、「なぜその質問が出るのか」に着目すべき質問です。

この質問を聞きたくなる、その心理に着目してみてください。

 

そのときあなたは何ですか?

そのときあなたは、何になっていますか?

 

「自分」が「何」であるかです、大事なことは。

質問の内容ではありませんし、質問の回答でもありません。

質問も回答も、単なるギャグです。

何でもないし、どうでもいいものです。

 

そんなことより、「自分」が「何」であるかが大事です。

その時あなたは、「何」ですか?

 

外に目をやるのではなく、自分に目をやりましょう。

今、自分が何であるかに。

 

「答え」なんてどうでもいいのです。

皆さん「答え」を求めますが、答えなんて究極どうでもいいのです。

つまり、「そんなこと知らん」が最も的を得た回答になるのです。

 

答えよりも大事なものを、見過ごさないでください。

自分自身」です。

 

あなたは今、何ですか?

コメント

  1. より:

    わからない時は「わからない」という現実を選んで生きている。わかると想像した途端にわかるんだ☺

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