宇宙の流れを川の流れに例えましょうか。
右から左に流れているとします。
そして我々は、その流れにプカプカ浮かんで、右から左に流れています。
流れに逆らうことはできません。
我々は川面に浮かぶ木の葉のようなものだから、流れに逆らうことはできません。
しかし、顔の向きを変えることはできます。
進行方向を向くことはできますし、逆方向を向くこともできます。
そして、進行方向に目を向けているとき「快」があり、逆方向に目を向けているとき「不快」があります。
そういうことです。
人生ってたったそれだけのことです。
…
宇宙は勝手に起こります。
星の誕生から、生命の誕生まで。
思考から気象から痴話喧嘩まで。
勝手に勝手にポコポコ起こってます。
その流れと同じ方向を向いているのか、あるいは逆方向を向いているのか。
たったそれだけのことです。
同じ方向を向いていれば「ノッてる感」があり、逆方向を向いていれば「うまくいってない感」を味わえると、そういうことです。
そしてその「どっちを向くか」ということも、究極の話起こってます。
なので、まあ正直、何の手出しも出来ないということですね。(笑)
起こっていることは止めようがないし、その「止めよう」すら起こっていることですから。
我々にできることはなんでしょうか。
「ハハーン、こういう仕組みになってるのか」と、その有様を眺めるだけです。
まあその「眺める」さえも起こっていると言ってしまえばそれまでですが。(笑)
…
世の中をよくする、人生をよくすると言いますが、その「よくする」とは一体なんでしょうか。
それはその人の「解釈」ですね。
世界はすでに「いい」のです。
よくする余地など1ミリもありません。
世界がすでにそうであるという時点で、1ミリの誤差もなく「いい」のです。
1ミリの誤差もなく「いい」から、そうなっています。
何らかの誤差があるなら、そうなっていないはず。
しかし現実に今この世界は「そう」なっています。
つまり世界は、1ミリの誤差もなく、完璧なのです。
世界は完璧じゃない、もっと良くしなきゃいけないという考えも含めて、完璧なのです。
じゃあ自然災害はなんだ、戦争はなんだ、政治家の汚職はなんだと、個人的な解釈で「よくない」と思われる事項をピックアップすることもできるでしょうが、それすらもいいのです。
人が個人的な解釈で、いろいろあげつらうのも、それすらも全部いいのです。
宇宙はあってもなくても、どっちでもいいのです。
「~でなきゃいけない」という前提が、あれはダメこれはダメを引き起こしますが、そんな前提がなければ、なんでもいいのです。
…
宇宙はそれでいいとしか言いようがないのです、現にそうだから。
我々の人生も、それでいいとしか言いようがないのです、現にそうだから。
お金を稼がなきゃいけない、立派なマイホームを建てなきゃいけない、ちゃんと職を得なきゃいけない。
そんな前提はそもそもないのです。
勝手な前提と勝手な否定で勝手に苦しんでいるかもしれませんが、それもまたいいのです。
どこまでいっても「それでいい」のです、なぜなら現にそうだから。
それでいいとは、どうしても思えない。
それもまたいいのです。
どうしようこうしようの前に、それを見てしまえば、もうやることなどありません。
何の手出しも出来ません。
有無を言わさぬ宇宙の流れには、我々のどうこうすら含まれてしまいます。
…
つまりは「向き」です。
どうこうできない宇宙の流れの方向を向いているのか、それとも逆方向を向いているのか。
どっちを向いていたとしても、結局どうこうはできません。
有無を言わさぬ流れに、我々も乗っかっているのです。
流れ自体、否定のしようがありません。
その否定すら肯定されてしまうのですから。(笑)
結局、快でいくか不快でいくか。
やってくることを見守るか、それとも目を背けるか。
たったそれだけのことに、落ち着きます。
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