何かをすることによって何かになる。
それは結局、堂々巡りです。
身体を鍛えて健康になる、資格を取って収入を増やす。
それらのやり方は、今までと同じです。
根本的に変わるために必要なのは、ただ事実を見ることです。
事実をありのままに見れば、それはただ見た通りです。
コップを見てコップとわかるように、車を見て車とわかるように、事実をありのままに見れば、事実がどうなっているのかがわかります。
それはつまり、今までいかに妄想の中で生きていたかがわかる、ということです。
そして妄想から抜け出すことが、根本的に変わるということです。
…
事実はあまりにもあっけないです、あまりにも単純です。
それはただそれ、というだけですから。
事実を見逃してしまうのは、それがあまりにもあっけなくて単純だからです。
だから人は、ただのそれに、いろんな意味や解釈、脚色、尾ひれ羽ひれをつけます。
それらの付着物がつまり、妄想です。
妄想を取り払った事実をそのままを見ると、そこに本来性を見ることができます。
本来のそれ、そのもの。
「え?これ!?」
はい、それです。
…
それが何の意味もないように見えるのは、実際何の意味づけもしていないからです。(笑)
本来全ては無意味です。
「意味」は本来のものではなく、後から付け足すものです。
本来それは、ただのそれです。
人は本来無意味なそれに意味づけし、その意味の中で生きています。
それはすなわち、事実の中に生きているのではなく、妄想の中に生きているということです。
事実は誰も否定できません。
事実はあくまで事実です。
しかし「意味」はいかようにも変えられますし、いろんな解釈もできます。
それは否定したり肯定したり、変えたり変わったりできる、不安定で頼りないものです。
…
事実を認識すれば、何が変わるでしょう?
それまでのそれは、それまで通りで、何も変わりません。
しかし認識が変わります。
ただのそれに対して、苦しんだり、期待したり、失望したりが、いかに見当違いで素っ頓狂なことかが、ハッキリわかります。
それは電柱に向かってイチャモンをつけるような、石ころに向かって「何で君はパンケーキじゃないんだ」と嘆くような、何とも滑稽でアホらしいことだとわかります。
それはあくまでただのそれでしかありません。
期待や失望や苦しみや喜びすら、ただのそれです。
全くすべては、ただのそれです。
肩の力が抜けるというか拍子抜けというか。
こだわりがなくなるというか、どうでもよくなるというか。
あらゆる重みも意味も消えて、「何でもないこと」の軽さが浮上します。
…
そして、その認識の転換が人生の転換です。
しかし、もはや「人生の転換」にもこだわりはありません。(笑)
楽しみも苦しみもやってくるままに享受し、それでOKです。
何事もそうなったらそうなったでOKです。
否定さえもOKです。
何でもOKです。
何でもOK。
それこそが幸せではないでしょうか。
絶対的なOK。
それこそが絶対的な幸せです。
…
お金がたくさん手に入った、美味しいものをたくさん食べた、素敵な恋人ができた。
そういう相対的な幸せは、「そうでない状況」との対比の上に成り立っています。
そうであったりなかったり、つまり相対的です。
それに対して絶対的なOKは、対比するものがありません。
「全て」がOKですから。
幸せとは肯定できること、それでいいと認められることであるなら、絶対的なOKは絶対的な幸せです。
ちょっと想像してみてください、全てが肯定できることを。
何であっても、何が起きてもOKです。
普通は素晴らしい状況、自分にとって好ましい状況だけがOKですが、全てがOKということは、全てが素晴らしく、全てが好ましいということです。
天国があるとしたら、それではありませんか?
…
事実を見れば、この世は天国です。
この世界は天国であることが、事実なのです。
それは何かをしたり頑張ったりして「そうする」ものではなく、ただ見ればわかることです。
ただ事実をありのままに見ればわかることです。
もともとがそうなのです。
もともと世界は天国なのです。
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