事実は全てを語る

何かを信じるのではなく、事実を確認しましょう。

これはこういうことだろうと解釈するのではなく、これはこれとして、これのままを確認します。

 

物事をその物事のまま、その物事として確認する。

コップはコップ、天気は天気、銀行預金は銀行預金。

あの人はあの人、この気持ちはこの気持ち、言ってしまった言葉は言ってしまった言葉。

ご飯を食べる時も、ごはんの味、おかずの味、味噌汁の味。

 

それ、それ、それ。

これ、これ、これ、と。

何の色付けもせず、何の解釈もせず、ただ無心に、あるものをあるまま、眺める。

 

それが、最も「普通」な状態です。

どんな立場にも偏っていない、センターの位置、と言えます。

アイドルでも、最も実力者がセンターの位置にいますね。

どこにも偏っていないその位置が、もっとも力のある位置です。

最も見通しがよく、最も少ない力で最大の効果を発揮する位置です。

そこにいさえすれば、最も的確にクリーンヒットを打つことができます。

どんな球にも対応できます。どこにも偏っていないので。

 

最大限に力は抜けています。

固持すべき何物もないからです。

「何も持っていない」と言えます。

どこかの立場にいて、そこの立場を守らなくてはいけないということはありません。

どの立場も取っていません。

だから、臨機応変にどの立場を取ることもできますし、そして、そこにこだわることもありません。

 

もともと私たちは、そうです。

もともとそうであったという、本来の在り方は、そうです。

そこから、ある立場を堅持したり、解釈を加えたり、期待を持ったり、意見を持ったりして、うねうねとズレていった結果の、今があります。

 

シンプルに、元に戻ってみます。

どの立場も取っていなかった、赤ん坊の頃のように。

目に映るものがただ目に映っていただけの、あの頃のように。

 

ただ単に「気づく」でいいのです。

それ以上行かなくていいのです。

 

それがそうであると気づいた。

だからこうであるに違いないとか、そこから導き出される結論は…、と、それ以上先に行かなくていいのです。

 

それがそうであると気づいた。

ということに気づいていてください。単純に。

気づきを学びに昇華する必要もありませんし、気づきを行動に変える必要もありません。

ただ単に、気づいた、ということに気づいていてください。

 

なぜなら、そこが本来在るべき位置だからです。

そこが、ズレる前の、もともと居た位置です。

どこかにいってしまう前の、もと居た場所です。

生まれた時のまっさらな赤ん坊のような、まっさらな、何にも汚されていない場所。

 

何にも汚されてないまっさらな瞳に、世界はどのように映るのか。

興味はないですか?

 

 

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