満足は常に、一時的です。
何かで満足を得たとしても、それは永遠に続きません。
満足は常に一時的です。
ですから常に、次の満足を求め続けています。
何をどれだけやっても、完全に満たされるということはありません。
何をどれだけやっても、何かしらの空虚を、完全に拭い去ることができません。
このもどかしさは、ほとんどの人に共通しています。
ここはもう、根本的な解決が必要です。
常に満足を追い続ける、永遠に満たされない旅路を、終わらせる時です。
人はその方法がわからないから、つい一時的な満足に飛びつきます。
一時的な満足はわかりやすく目の前に存在します。
つい手を伸ばしてしまいます。
でも、いい加減その無限ループを終わらせたい。
いい加減真の満足を得たい。
ではどうすれば、真の満足を得ることができるのでしょうか。
それは今得ている一時的な満足とは質が異なることは、理解できます。
物質的、精神的、肉体的な満足では、真の満足は得ることができませんでした。
真の満足は、それらではないことは、わかります。
…
そもそも、人はなぜ満足を得たいと条件付けられているのでしょうか。
なぜ人は、満足を求めるように作られているのでしょうか。
そこに理由はありません。
理由は知る由もありません。
理由はひとつの解釈にすぎず、解釈は後付けです。
理由はありません。
ただそうである、というだけです。
…
物事はただそうである、というだけです。
人が満足を求めるように作られているのも、ただそうであり、その衝動にしたがって満足を求めるのも、ただそうであり、一時的な満足に満足できず、真の満足を求めるのも、ただそうです。
ただそうであることに、我々は手を下すことができるのでしょうか。
下したと思った手も、やはりただそうです。
どこまでいっても、ただそうです。
物事は全て、「ただそう」です。
これはもう、どうしようもなく、否定もできない事実です。
このどうしようもなさ。
ただひたすらどうしようもなさ。
何もできない、何もできなさ。
これはもう、絶対です。
認めようが認めまいが、絶対です。
認めることも、認めないことも、全てが含まれてしまう、絶対性です。
何物もそこから逃れることはできません。
それがわかったとき、それが見えたとき、どうしますか?
抵抗も無抵抗も含まれてしまうそれに対して、どうしますか?
抵抗などできません。
抵抗すらそれに含まれてしまいます。
どうにも逃れようがありません。
もうやめましょう。
全て、やめましょう。
何をしても無駄です。
全て、やめてしまいましょう。
というかもう、やめる以外にやることはありません。
あなたが求めているのは蜃気楼です。
頭の中でこしらえた、幻影です。
そんなものはありません。
真の満足なるものは、どこにもありません。
事実は無です。
無があるだけです。
あなたは何も得ていませんし、何も失っていません。
何もない無の中に、ただそれが、浮かんでは消えているだけです。
「真の満足」も、そこに浮かんでは消える内容物のひとつです。
あなたの実体は内容物のほうではなく、それら内容物が浮かんでは消える「無」のほうです。
無は、浮かんでは消える内容物を、所有してはいません。
あなたはそれらを、得たり失ったりしているわけではありません。
あなたは何も持っていませんし、何も失っていません。
テレビ画面はそこに映っている物やコトを所有しているわけではありません。
内容物はあなたとは無関係です。
あなたと関連のあるものは、何もありません。
物事との関連は、全てあなたの解釈です。
この人は配偶者、この人は子、この人は親。
ここは自分の会社、ここは自分の住む地域、これは自分のもの、あれは他人のもの。
ただの解釈です。
事実はただそれがそれとしてあるだけです。
ただそれがそれとしてあるそれに、ただ解釈という事象がまたただのそれとして起こっているだけです。
あなたは無であり、全ても無です。
この何でもなさ、この無意味さ。
この「無」性、全てが無であるという絶対性。
無以外は何もないという絶対性。
何物も無からは逃れられないという絶対性。
それ、それ、それ。どこまでいってもそれ。ただのそれ。
もはや満足など追う必要もありません。
もちろん追っても構いません。
どっちでもいいし、なんでもいいです。
いずれにしろ、ただの「それ性」からは逃れられない。
もう何でもいいし、どっちでもいいです。
いずれにしろただの「それ」です。
もう満足なんてどうでもいいですね。
ただなすがままです。
ただ流れるままにしておくだけです。
不機嫌もいいし、ご機嫌もいいです。
ただそれを眺めているだけです。
寝てもいいし、起きてもいい。
頑張ってもいいし、頑張らなくてもいい。
ただのそれ。もうお任せ。
それだけ。
それがいわゆる、真の満足です。
なんでもいいし、どうでもいい。
全てOK、残らずOK、まるごとOK。
それが真の満足です。
…
真の満足とは、物じゃないし、コトじゃない。
真の満足は「何もしない」です。
物やコト自体は同じです。まるっきり同じです。
まるっきり同じ、その物やコトを、ただそのままにしておくのが、真の満足です。
まるっきり同じ、その物やコトに、ボヤキを入れたり茶々を入れたりするのが、不満足です。
しかしながらそれは、もはやどっちでもいいことです。
だってもう、なにが起こってもOKなんですから。
あなたは無です。
あなたはそこで物やコトが起こる、無です。
無は何もできません。
何かをするようなものではありません。
無はただ、物事が起こる場です。
物事は発生し、消えていきます。
「する」すら「起こり」ます。
「抵抗」すら、「起こり」ます。
ただ起こり、ただ消えていきます。
苦悩は起こり、喜びは起こり、残念は起こり、解決は起こります。
いわゆる普通の満足は、その「起こること」の内容物です。
お金を手に入れた、恋人を手に入れた、地位や名誉を手に入れた。
それらは起こり、また消えていきます。
真の満足は、内容物ではありません。
起こったり消えたりしません。
真の満足は無です。
それは「何」ではありません。何でもありません。
起こりませんし、消えません。
つまり永続です。
常に満足を追い続ける、永遠に満たされない旅路は、いまここに、終わりの時を迎えるわけです。
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