とても楽しいことをしたいと思いますね、とても楽しいこと。
それは何でしょうか?
趣味?ゲーム?遊び?旅行?昼寝?
「何」ではないですね。
何をやっていても、楽しいときは楽しいし、楽しくない時は、楽しくありません。
どれだけ好きな趣味をやっていても、楽しいときは楽しいし、楽しくない時は楽しくありません。
「楽しさ」と「何をやるか」は、実際あまり関係ありません。
何をやっても楽しくないということもあるし、何をやっても楽しいということもあります。
「何」ではないなら、じゃあ何なのか?
「心持ち」みたいなもんですね。
ウキウキと楽しくハッピーな気分なら、何をやっても楽しいでしょう、きっと。
暗く陰鬱でジメジメした気分なら、何をやっても楽しくないでしょう、きっと。
しかし、「心持ち」なんてコントロールできるのか?
毎日24時間ウキウキと楽しくハッピーな気分でいられるのか?と。
コントロールなんてできませんね。
コントロールはできません。
それはみなさん、さんざん経験済みだと思います。
コントロールできないことをコントロールしようとする。
だから苦しいのです。
なんでこうじゃないんだ!?なんでそうじゃないんだ!?と、口に出さなくても、心の中でそう思っている。
だから苦しいわけですね。
コントロールできないものをコントロールしようとするから。
じゃあどうするかといったら、コントロールを放棄するしかありませんね。
それしかありません。
コントロールを放棄するとどうなるか。
楽しい時には楽しいし、苦しい時には苦しい。
まあ、そのまんまですね。
苦しい時に楽しいフリはしないし、楽しい時に苦しいフリもしません。
楽しいなら楽しい、苦しいなら苦しい、嬉しいなら嬉しい、悲しいなら悲しい。
そのまんまです。
それってどういう気分でしょうか?
爽快です。
気持ちいいわけです。
そのまんまだから。
なんの取り繕いも演技もなく、ありのままそのままだから。
その爽快さ、気持ちよさ。
それが、本当の意味での楽しいことです。
真の楽しさとは、普通の楽しさを超えたところにあります。
趣味や旅行が楽しいわけではありません。
楽しいことをそのまんま楽しいと言えることが、楽しいのです。
同様に、悲しいことをそのまんま悲しいと言えることも、一種の楽しさです。
「それ」がそのまんま「それ」であるとき、爽快感があります。
それは一種の「快感」です。
「楽しもう!苦しくても悲しくても楽しもう!」
というよりも、
「そのままでいよう!ありのままでいこう!」
となるわけです。
それこそが真に楽しいことです。
「何か楽しいことをしたい、どこかに楽しいことはないか?」と、キョロキョロうろうろしている時、それはちっとも楽しくありませんね。
楽しくない状況を否定しているからです。
コントロールをかけているわけです。
楽しくない状況はイカンと。
では、楽しくない状況を楽しくないとそのまま認める時、そこに楽しさはあるのでしょうか?
いえ、ありませんね。
楽しさの不在を認めるということはすなわち「楽しくない」ということですから。
しかし、「楽しくないことを楽しくないと認めること」は、楽しいことです。(笑)
楽しくないことを楽しくないと認めるとは、「それでいい」という許可が出ているということです。
許されているということです。
つまり、楽しさの核心は、楽しいか楽しくないかではなく、「許されているか許されてないか」です。
楽しくなくても、許されていれば楽しいのです。
逆に楽しくても、許されていなければ、楽しくないのです。
だから、本来楽しいはずの趣味や旅行が楽しくなかったりもするのです。
そこに何かブレーキをかける要素があるから。
許されてない何かが存在するから。
「許しているか」
つまりはそこです。
楽しいことをしたい、楽しくないことはダメだと、楽しくないことを否定するとき、そこに残るのは不快感であり、居心地の悪さです。
楽しくなくてもいいと、楽しくないことを認めるとき、そこに残るのはホッとする安堵感と、居心地のよさです。
楽しいことをしたいと思う時は、楽しい・楽しくないに囚われるのではなく、そのさらに一段上の「楽しさを超えた楽しさ」を目指すといいでしょう。
それは楽しくなくても楽しいのです。(笑)
楽しくないことが許されている場所。
普通なら忌み嫌われてしまう「楽しくない」が、のびのびとくつろいでいられる場所。
そこはすなわち、楽しい場所です。(笑)
コメント