求めることではなく「選択」

人は常に何かを欲していますね。

心の安らぎや平安、真の幸福や真実なるもの。

そういったものも「求められ」ています。

 

しかし、それらは求めることによっては、手に入りません。

それらは、「求めることをやめること」によって、手に入ります。

 

求めることをやめるとは、「求めないこと」とは違います。

求めるをやめると同時に、求めないもやめます。

「求める」とか「求めない」ではない場所、ということです。

そこに居て、求めるなら求めるを、求めないなら求めないを、ただ見守ります。

 

「する」立場ではなく、「見る」立場です。

何かがあるなら、何かをただ、見ている立場です。何もしません。

 

 

その場所に居れば、物事は「勝手に起こる」と言えるでしょう。なにもしないわけですから。

求めるも勝手に起こるし、求めないも勝手に起こります。

全ては、勝手に起こります。

その勝手に起こる様を、ただ見ています。

 

それは「降りる」ということに近いかもしれません。

鬼ごっこをやっていて「イチ抜けた」といって、その場を降りること。

その場の一員として、逃げたり追っかけたりして場に参加するのではなく、その場を降りて、その場の状況を見守る立場です。

 

人生という場に参加して、求めたり求められたり、惚れた腫れたと参加するのではなく、その場を降り、その場を見守る立場です。

それを選択しましょう、という話です。

 

そこでは事は自分が起こしているのではなく、勝手に起こっています。自分は居ないわけですから。

そしてそれをただ、見守っています。

 

いわゆる一般的な意味での「自分」はもちろん、場の中に居ます。

自分の「身体」とか「思考」とか「記憶」とか。

実際にこの世界に物理的に生きているわけですから、それはもちろんそうです。

その「自分」すら見守るのです。

 

つまり、一般的な意味で「自分」と思われていたものは、本当は自分ではなかったということです。

その「自分」すら見ているものが、むしろ本当の自分です。

 

その時自分はそこに居ないわけですから、楽です。

何もしないでただ見ているだけですから。

自分には関係のないことですから、苦しんだり悩んだりすることもありません。

 

 

それは、求めることによって手に入れるものではなく、「選択」です。

その立場を「選択」するのです。

その立場は、いつでもどこでも選択できるものです。

「求める」なんてものでは全然ありません。

 

「そうしたいからそうする」という、ただそれだけのものです。

何の物理的な手順もありません。

ノータイムでパッと、ただ選択するだけです。

今、この瞬間、ただ単に「降りる」だけです。

 

それは「欲しいものを手に入れる」ということでは全然ありません。

でも人は普通、欲しいものを手に入れることに熱心です。

だからその立場を、あえて選択しないのです。

そんなことより、「欲しいものを手に入れる」ということをやっていたいのです。

まだ「降り」たくないのです。

 

それはつまり、その人はまだその段階ではない、ということです。

 

 

人にはそれぞれ成長の段階があります。

子供のころ夢中で遊んでいたおもちゃには、大人になると見向きもしなくなります。

もうそういう段階ではないからです。

 

欲を満たすというゲームに夢中な人は、まだその段階なのです。

それはそれで結構なことです。

子供がおもちゃで遊んでいるからといって、だれも責めたりしません。

それはただその人にとって、そいういう段階だというだけのことですから。

 

でも人は必ず成長するので、遅かれ早かれそのゲームを降りる時がきます。

そうではないタイミングで、無理に選択をする必要はありません。

 

あなたはどうですか?

その選択をする準備ができましたか?

それともまだ、今までどおりの世界で遊んでいたいですか?

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