「気づき」とは一体何か

生活している中で、常に湧き起こる、思考や感情。

気がつくと、何かを考えていたり、何かを感じていたりします。

そういった、やって来ては去っていく思考や感情の奥を、さらに見通してみましょう。

 

まずは、「今、思考や感情がある」と気づいてみましょう。

思考や感情に無意識でいるのではなく、意識的にそれに気づくのです。

「あ、あるな」と。

 

思考や感情に気づくことができるその「気づき」は、同じように「目に見えるもの」や「聞こえる音」に気づくこともできます。

ありとあらゆるものに気づくことができます。

 

その「気づき」は思考でしょうか?

思考とはちょっと違いますね。

思考にも気づくことができるそれは、思考とはちょっと違いますね。

 

では「気づき」とは何でしょう。

「気づき」は気づきですね。

認知、認識とも言い換えることができるかもしれません。

「それが、そうであると、認めること」ですね。

 

「それが、『ああ』である」とか、「それが、『こう』である」ではありません。

気づきは「それ」を何か別なものに変換してしまう「作用」ではありません。

気づきは何もしません。

「それが、そうであると、ただ認めること」です。

 

「思考」は逆に「作用」です。

たとえばコップに水が半分入っているとして、「半分しかないのか…」とか「半分も入ってる!」と、事実を何かに変換してしまう作用が、思考です。

「気づき」は、コップに水が半分入っているなら、「コップに水が半分入っている」と、ただそのまままを認識するだけです。

何にも変換しません。

事実をありのままに認識するだけです。

 

このように、ありとあらゆる全てに、ただ気づいてみてください。

 

 

思考するのでもなく、感情に浸るのでもなく、ただ「気づいて」みてください。

思考するのなら、その思考に気づいてください。

感情に浸るのなら、その感情に気づいてください。

何かがそこにあるのなら、それに気づいてください。

 

気づく、気づく、気づく。

全てに気づいてみてください。

 

何に変換するのでもなく、ただそのままに、気づいてください。

変換するのであれば、今変換しているということに、気づいてください。

 

どこまでいっても気づいてください。

ただひたすら、気づいてください。

 

「ああいやだな」と思うなら、その思いに「気づいて」ください。

「ああどうしよう…」と思うなら、その思いに「気づいて」ください。

「マジむかつく」と思うなら、その思いに「気づいて」ください。

切ない過去を思い出して悲嘆にくれるなら、その状況に「気づいて」ください。

悔しい過去を思い出して臍を噛むなら、今現にあるその状況に「気づいて」ください。

 

「気づく」のは「今」しかできません。

「気づき」と「今」は同義語です。

「常に気づいている」ということは「常に今にいる」ということです。

実際にやって確かめてください。

気づくということは、「今」以外にできません。

 

今、現にある全てに気づいてください。

今、現にある全てに、気づいていてください。

ただ、気づき続けてください。

ただ単に、気づき続けていてください。

 

何もわからなくていいです。

何も知らなくていいです。

わかったなら「わかった」というその思いに気づいてください。

知ったなら「知った」というその感覚に、気づいてください。

 

 

この謎めいた「気づき」に、我々は普段、一向に気づかずにきましたね。

「気づき」の存在に、気づかなかったのです。(笑)

でも我々はいつも、この「気づき」によって生きています。

 

信号が「青になった」と気づいたから、横断歩道を渡ります。

「好き」という気持ちに気づいたから、告白します。

ミスに気づいたから、修正します。

「おえ!マズ!」と気づいたから、口に入れた食べ物を吐き出します。

 

「気づき」は普段気づいていないだけで、実は我々はいつも、気づきによって生きています。

味わうことも、はにかむことも、疲れることも、好きになることも、全部「気づき」によって認知されています。

気づきは生きることそのもの、と言ってもいいでしょう。

 

そんな「気づき」って、一体何でしょうか?

 

たとえば「怒り」に気づいたとき、その気づきは「怒り」でしょうか?

「怒り」と気づきは違いますね。

怒りは怒りであり、気づきは気づきです。

(実際のところそこには分離や境界線は見当たりませんが、ここでは便宜上)

気づきは怒りだけでなく、ミカンやボールやペットボトル、それに音や味にも気づきますが、ミカンはミカンであり、ボールはボールです。

 

「気づき」は、何でもありません。

 

何でもないからこそ、何にでも気づくことができます。

気づき、認知、認識。

気づいているとき、我々は何でもありません。

ただ気づいているとき、我々は何でもありません。

 

ではその「我々」って何でしょう。

人が「自分」と考えるものは、一体何でしょう。

それは思考でも感情でも身体でもなく、「気づき」ですね。

 

思考や感情は、来ては去ります。

そしてふたつと同じものがありません。

似たような思考や感情はしばしば湧き起こりますが、全く同じであることはあり得ません。

「その時だけのもの」「消えるもの」

これらは自分ではありませんね。

これらが自分なら、とっくに自分はいませんね。

 

じゃあ身体はどうか。

身体に気づいていないとき、身体はありますか?

身体に気づいていないとき、身体はありません。

「いや、気づいていようがいまいが、あるよ、あるに決まってるよ」

それは、気づいていないときもあるはずという「想像」が、今ある、ということですね。

あるいは、過去の身体に気づいていた時の「記憶」が、今ある、ということですね。

 

「気づき=今=自分」というものは、常にあるのでしょうか。

それは、何もしてない、ボーってしてるときにもあるのでしょうか。

あるいは、熟睡中にも、あるのでしょうか。

 

気づいてないとき、気づきはありません。

それはもう、言葉通りですね。

気づきがないとき、気づきはありません。

ボーっとしていて気づきが無かったのなら、その時気づきは無かったのです。

では何があるのか?

 

ボーっとしていた、という思いが、今あるのです。

熟睡していたなら、熟睡していたという思いが、今あるのです。

気づきが無いならば、気づきが無いという思いが、今あるのです。

結局、今しかありません。

 

そして今において、気づきもあります。

気づいている時が今であり、今が気づいている時です。

結局気づきは「いつでもある」ということになります。

 

ここまでくると、もう「気づき」が全て、ですね。

 

今、この瞬間、認知しているものが、世界の全てですね。

「認知していなくても世界の裏側の生活はちゃんとある」というなら、「世界の裏側の生活はちゃんとあるはず」という想像が、今あるだけです。

 

「今目に見える景色、聞こえる音、におい、味。認知されるこれらが世界の全て」→という思いが今ある。

「そう考えると、世界は狭いですね」→という思いが今ある。

「なんて世界は狭くてちっちゃいんだ」→という思いが今ある。

「いやいや世界には自分がまだ見たことも聞いたこともない沢山のもので溢れている」→という思いが今ある。

 

どこまでいっても、今、そこにあるものがあるだけです。

それって当たり前のことですよね。(笑)

 

今、そこにあるものが、ただある。

めちゃくちゃ当たり前すぎて、「はぁ…?」となりますね。

今、そこにあるものが、ただある。

それって興ざめするほど事実です。

どうしようもないくらい、事実です。

 

事実って、ただそれだけです。

夢も希望もありません。(いや、あるならただ「ある」だけ)

恋もロマンもありません。(いや、あるならただ「ある」だけ)

苦悩も懊悩もありません。(いや、あるならただ「ある」だけ)

 

この事実に気づくのです。

努力したり、頑張ったり、苦しんだり、もがいたりするではなく、「気づく」のです。

 

ただ気づくのです。

「気づき」は全てであり、生きることそのものです。

 

気づいている時が、あなたが真に生きている時です。

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