苦しみってなんだろう

苦しみってなんでしょう。

苦しみって、実体がないですね。

「これが苦しみです」と、目の前に差し出すことはできません。

苦しみって全て、脳内にしか存在しません。

 

苦しみは、それを意識しなければ、無いものです。

苦しみは、意識したときにだけ、そこにあります。

 

そして、人が生きるということは全て、「意識内の出来事」とも言えます。

考えたり、あせったり、飲んだり食べたり、話したり笑ったり、歩いたり転んだり。

味覚、聴覚、視覚、嗅覚、思考、感情。

それらは意識に上る出来事、ですね。

苦しみとは、そんな意識に上る出来事の1つです。

 

 

さて、そんな意識に上る出来事を、あなたはコントロールできますでしょうか。

苦しみなるものは、実に勝手にやってきて、勝手に居座ったり、去ったりします。

 

苦しみは思考のコントロールや考え方の転換で無くすことができる。

そんなテクニックも、多数紹介されています。

 

でも、100%うまくいく、ということはありません。

できる人がいたり、できない人がいたり、できる時があったり、できない時があったり。

そしてなぜそうなのかは説明はつきません。

 

苦しみがやってきたなら、それはなぜか知らないけど、やってきた。

それに対する対処やコントロールが起こったなら、なぜか知らないけど、起こった。

去ったなら、なぜか知らないけど、去った。

居座ったなら、なぜか知らないけど、居座った。

それに対する解釈が起こったなら、なぜか知らないけど起こった。

 

「なぜそうなるか」というのは、全て解釈です。

事実は、出来事がただ起こっているだけです。

なぜかはわかりません。

わかったと思ったそれは、ひとつの解釈であり、それもまた、なぜか知らないけど、起こったことです。

どこまでいっても、起こった、起こった、起こったです。

事実はそうではないですか?

 

それに対してどうこうしようとするなら、それが起こった。

何もしないなら、それが起こった。

 

もう、どうこうしようもなくないですか?

どこまでいっても、どうこうしようがないわけですから、もうどうこうしようがありません。

もう「やること」は何もありません。

 

「いやだいやだ」も勝手に起こってるし、「それでいい」も勝手に起こってます。

「認めない」も勝手に起こるし、「認める」も勝手に起こります。

我々にできることは、その事実をただ「見る」ことだけではないでしょうか。

ああ、そうなっているんだなと。

その事実をただ見ることだけではないでしょうか。

 

苦しみは、あなたがどうこうしたからそうなったのではなく、ただ起こり、ただ居座り、ただ去ります。

どうこうするならそのどうこうが起こるだけです。

苦しみが消えたなら、消えただし、消えないなら消えないです。

それで嬉しいなら嬉しいだし、余計苦しみが増すなら、余計苦しみが増すです。

ただそうであるだけです。

 

 

ただそうであることを見るしかありません。

我々にできるのは、その「そうである様」をただ見ることだけです。

ただそうである様を眺める。

どうこうしない。

それをそれのままにする。

 

そのときあなたはどういう状態でしょうか。

「無」ですね。

「何」でもないですからね。

もちろん苦しみもありませんし、何もありません。

 

それでいいのではないでしょうか。

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