「見る」ことと「わかる」ことは違います。当たり前ですが。
「見る」は文字通り、「見る」です。
(ちなみにこのブログで言う「見る」は、視覚に限らず知覚全般のことを言っています)
見たまま、聞いたまま、感じたまま、そのままです。
ある看板を見たなら、その色、形、佇まいをそのままを受け入れます。
それに対して「わかる」は、その看板を「解釈する」ということです。
その看板が伝えている内容、色、デザイン、その看板がそこにある意味、そういったことを「解釈」します。
例えばその看板が黄色だったなら、「見る」は黄色以前の「それ」、それが黄色と呼ばれる前の見えたまんまの「それそのもの」を受け入れます。
それに対して「わかる」は、その黄色の具合を解釈し、その解釈を受け入れます。
「見る」はダイレクトであり、「わかる」はノンダイレクトです。
「見る」はそれそのものであり、「わかる」は加工品です。
「見る」によって受け入れたものと、「わかる」によって受け入れたものは「違う」ということです。
物事を「わかる」によって受け入れるのではなく、「見る」によって受け入れましょう、という話です。
物事を解釈によって歪める以前の「そのまんま」、それそのものを見てみましょう。
…
驚くべきことに、実に驚くべきことに、我々は全然ものを「見て」いなかったということがわかります。
我々が見ていたものは、ほとんどが「解釈」であり、「それそのもの」ではありません。
だから「問題」も起こります。
問題なるものは「解釈の齟齬」です。
解釈しなければ、そもそも問題は起こり得ません。
ここで解釈をしないで、ただ「見る」ってどうやるの? という質問が出るかもしれません。
それは、何も考えないで、視界に入ったもの、知覚に引っかかったものをそのままにしておく、ということです。
ただ見えるものが、見えるままに、見えるだけ、です。
ただ聞こえるだけ、ただ感じるだけ、ただそれだけ。
ストレートに、それそのものが、それそのものであるままにしておく。
要は「何もしない」ということです。
何かをしようとして、そうできないことが、すなわち苦しみです。
何もしようとしなければ、そもそも苦しみはありません。
…
そんな見えたまんまの世界は、しばしば「神の国」などと言われます。
なぜそう言いたくなるかは、実際に見ればわかります。
そこには汚いものが何もありません。
汚いものは全て「解釈」によってもたらされます。
問題もありません、苦しみもありません。
そんな神の国にみなさんも「行きたい」と思われることでしょう。
行くのは、簡単です。
そのように見れば、いつでもそこは、神の国です。
でも、そこに「住む」のは、難しいです。
なぜなら、まだ解釈の世界に未練があるからです。
解釈によって世界をどうこうすることに、未練があるのです。
「まだ自分の思い通りになっていない、これが済んだら」とか「まだあっちも片付いてないし、こっちも片付いてない」と、いつまでもぐずぐずしているからです。
「もうちょっと自分の思い通りにしたい」という思いを、なかなか断ち切れないのです。
それほどまでに、解釈の世界は魅力的なのです。
…
人は「考える」という機能によって、ずいぶんと生活を発展させました。
便利になりましたし、快適になりました。
しかし同じ「考える」という機能によって、不要な苦しみも引き受けるようになりました。
苦しみは全て「考える」ことから起こります。
考えることがなければ、苦しみはありません。
試しに考えることを無くしてみれば、それはすぐに理解できます。
「考える」ことは、諸刃の剣なのです。
プラスとマイナスを、同時に持っているのです。
そして人は、そのプラス面をなかなか捨て切れません。
いくらマイナス面があるからといっても、その剣自体を捨てることが、なかなかできないのです。
でも、その剣を持っている以上、マイナス面は必ずくっ付いてきます。
苦しみを捨てたければ、その剣自体を捨てるしかないのです。
そしてその剣を捨てるということは、プラス面も同時に捨てるということです。
ここにジレンマがあります。
選択肢は、
- プラスとマイナス、両方引き受ける
- プラスとマイナス、両方捨てる
2つに1つです。
喜びや快感を味わいたいなら、悲しみや不快も同時に存在する世界にいなくてはいけないのです。
そして大抵の人は、喜びや快感を求めて、同時に苦しみや悲しみも引き受けている状況です。
そしてたまに、苦しみや悲しみに耐え切れず、剣そのものを捨てるという選択が起こったりします。
まず、この選択肢に気づいてください。
そして、あなた自身の選択を、選択してください。
世界をわかろうとするのか、それとも、世界を見るのか。
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