「何が起ころうと、今ある出来事がただあるだけ」
これは、全ての出来事に共通しています。
いま、どんな出来事が起こっていようと、「今起こっている出来事がただ起こっている」であることに、変わりがありません。
何千人の前でスピーチするような緊張する場面でも、明け方のベッドでまどろんでいるようなボンヤリした場面でも、「ただ、今、それが起こっているだけ」という点において、全く同じです。
そのことをよく感じてみて欲しいのです。
「そんなの当たり前じゃん」と軽く流すということは、真実を見逃すということです。
真実というのは、とても当たり前すぎて、本当に簡単に見過ごされてしまうものです。
だから、簡単で当たり前のことに、いちいち集中してみていただきたいのです。
その当たり前である「全ての出来事の同じさ加減」を見た時、世界のフラットさがわかります。
その視点から見ると、出来事は全て同じです。
その視点から見ると、出来事に軽重貴賎はありません。
全てフラットです。
では、その視点でいくと、面白さというものはなくなるのでしょうか。
一般的な解釈では、面白さは「差」があるからこそ、生まれます。
面白くないものがあるからこそ、面白さもあります。
世の中全て「面白い」だけだったら、他との区別がつかないので、それが「面白い」ということを知ることができません。
「世界に差が無くなり全てフラットになると、面白さが失われるのではないか」と、そう思われます。
その通りです。
これまでの解釈による面白さは、失われます。
これまでの面白さは、失われます。
「面白さ」だけでなく、差によって知ることができる全てが、失われます。
嬉しさ、楽しさ、悲しさ、寂しさ。
差異によって知覚していた、それら全てが、失われます。
では一体そこには何があるのかというと、「何もない」があります。
それら全てが失われた状態は、「何もない」です。
そこにあるのは、「何もない」です。
では「何もない」とは、何でしょうか。
それは「何」とは言えません。
なぜなら「何もない」ですから。
「何」と言った瞬間にそれは「何」になり、「何もない」ではなくなります。
ですから、「何」とは言えません。
つまりそれは、説明できないものです。
説明できないものをどうやって人に伝えるか?
それはできません。
説明できないのですから。
だからそれは、人づてに教わることはできません。
それを知るには、自分でそれを経験するしか、手段がありません。
そこで冒頭の「何が起ころうと、今ある出来事がただあるだけ」ということを、よく感じてみて欲しいのです。
「そんなの当たり前」とスルーせずに、よく感じてみて欲しいのです。
そこに居る時、あなたは「何もない」を見ます。
そこにおいてあなたは、「何もない」を実際に経験するのです。
人づてでは知ることの出来ない「何もない」を、直接体験するのです。
では、「何もない」を体験することの意味は何か?
それは物事の根っこに立ち返るということです。
「基本に戻る」「初心に帰る」そういうことです。
物事は全て「何もない」から複雑に派生したものです。
その複雑さの中で迷子になっているなら、一度スタート地点に戻ってみてはどうかと、そういう提案です。
現代人はたいてい迷子になっています。
複雑すぎて、落ち着かなくて、モヤモヤして、何がなんだかよくわからなくて。
不安で、イライラし、何か違うなぁと違和感に苛まれ、でもどうしていいかよくわからなくて。
それを一回リセットしてみてはどうかと、そういうことです。
「ゼロ」ってどんな気分でしょう。
おそらく、清々しくて新鮮で、うぶで純粋で無垢で、生まれたての赤ちゃんに近いでしょう。
気分的にでもそこを経験できたら、新しい人生が始まる気がしませんか?
それは可能なのです、実際。
そこはどんなに失くしても失くせない根本的な部分なので、いつでもそこにあり、いつでも還ることができます。
「ゼロ」という、複雑さの根っこにある部分。
全てを剥ぎ取って、最終的に残る部分。
どんなに失くしても失くせない、最終的な部分。
一度そこに戻りませんか?
そこから世界は新しく始まります。
世界は毎瞬、新しく始まります。
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