創造の原理

創造は、想念において行われる。

物質においてではない。

物質は最終段階。

想念においてすでにクリエイションは完成済み。

物質にはこだわらなくていいのです。

我々は想念において、自由に創造が可能です。

実際に手を使い、足を使って、粘土をこねて何かしらの形を作らなくても、すでにクリエイションは完成済みです。

クリエイションとは想念。

そして、想念は自由。

つまり人は、自由に創造ができるということ。

制約があるとしたら、それも一種のクリエイション。

本来の自由において、自らが「制約」なるものをクリエイションしたのです。

 

誰もあなたの自由を侵すことはできない。

何人たりとも、自由を侵すことはできない。

それは「できるけれどもやっちゃダメ」という道徳みたいな話ではなく、単純に不可能。

それは宇宙の法則だから。

制約は、自らの自由意志において、自らが自由に創造した創作物です。

何人も自らの意思によらない創造はできない。

あなたの創造は、完全にあなたの自由意思において行われている。

幸も不幸も、豊かさも貧しさも、全てはその人の見事なクリエイションである。

大変な傑作である。

優劣はない。

それぞれがそれぞれの立場で素晴らしいクリエイションを発揮している。

引きこもりも社長も、スターもファンも、政治家も学生も、それぞれの立場でそれぞれの素晴らしいクリエイションを発揮している。

振り回されたり、振り回したり。

嘆いたり喜んだり。

沈んだり浮かんだり。

これを完璧と言わないで、一体なにを完璧と言うのだろう。

全ては完璧。

幸も不幸も、聖も邪も、完全も不完全も。

すでに完璧であり、完璧からは逃れられない。

誰が何をやっても完璧。

成功しても失敗しても完璧。

何をやってもいいのである。

どうなってもいいのである。

その完璧さ、その完全なる自由の中で、あなたは何をしますか?

遠慮するのも自由、遠慮しないのも自由。

それはどちらも等価。

「それができる」ということは、その時点ですでに、宇宙の許可が出ている。

宇宙が許可しないものは、はじめからできない。

宇宙が許可しないものは、はじめから存在しない。

それが存在している、それが考えうる、それが可能であるということは、その時点ですでに、宇宙からの許可が出ている。

つまり、やろうと思えることは、何でもできる。

「いや、そんなことはできない」と思うことすらできる。

「できると思う」ことはできるし、「できないと思う」こともできる。

それらは完全に等価。

どっちでもいいし、どっちでも一緒である。

「どっちを選びますか?」という、ただそれだけの話。

そっちを選んでもOK、こっちを選んでもOK。そしてそれは、どっちも等価。

不幸や嘆きは自らのクリエイション。

幸福や輝きも自らのクリエイション。

どちらも同様に、素晴らしいクリエイション。

 

あなたは実際、自分で選んでいる。

「選ばされてる」という思いすら、自分で選んでいる。

自らの意思によらないクリエイションは、何一つないし、そんなことは不可能。

知っていようが知っていまいが、全ては自らの管理下において行われている。

それを知るということが、自覚です。

あなたは自らの人生を自覚していますか。

目を覚まし、はっきりと自覚し、自ら意思で自らのクリエイションに積極的に関与する。

それは健全な生き方です。

それは宇宙の法則に沿った生き方です。

 

法則は厳然としてそこに存在します。

法則に逆らうことは、何人たりとも不可能です。

空中を歩くことはできません。

それは誰にもできません。

重力の法則にしたがって、全員落下します、例外なく。

それが法則です。

 

誰もあなたの自由を侵すことはできない。

人は全員、自らの責任において、自らの自由意志でクリエイションを行っている。

それが法則です。

法則には逆らえないのです。

誰もあなたの人生を決めることはできないし、そんなことは不可能です。

 

あなたは今すでに、素晴らしいクリエイションを発揮している。

今すでに、あなたが選んだあなたらしいクリエイションを発揮しています。

何の心配もいらないし、そのままでいいし、それ以外できません。

完璧以外の選択はできないのです。

全ては完璧の中で行われています。

どうしようもなく、あなたは完璧だし、全ては完璧です。

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