他人との比較、ということについて

他人との比較って、よくやることですよね。

あの人に比べて自分はイケてるとか、この人に比べて自分はまだまだとか。

他人との比較はやめたほうがいいとか、それによって奮起したほうがいいとか、いろいろ言われます。

 

しかし、よく考えてみてください。

この世界には、自分しかいないのです。

全ての出来事は、自分の中で起こっています。

 

ノーベル賞の受賞も、宇宙遊泳も、あこがれのモデルや女優さんの華やかな舞台も、全ては自分の中で起こっています。

自分において、その出来事が起こっているのです。

だから、他人と比較して嫉妬したり落胆したりするのは、何か少しヘンな話です。

 

自分に比べて自分が劣っているとか、少しヘンな感じしませんか?

あの人の華やかな業績も、この人の華麗な生い立ちも、全ては自分の中で起こっている出来事です。

 

ほうほう、なるほど」じゃないですか? 普通のリアクションとして。

全ての出来事は、「ほうほう、なるほど」じゃないですか?

 

「他人との比較」なるものは、自分しかいないという本来の在り方をうっかり忘れて、見方がズレているということです。

 

 

今の世の中、「自分と他人」という考えが非常に当たり前のように浸透しています。

「私とあの人」「私とこの人」というように。

「私」と「あの人」や「この人」は、全くの別物であり、明確なラインがあり、個別の存在です。

 

でもそれは、本来の事実からはズレたものの見方です。

事実として存在は「自分」しかありません。

 

目に見えること、音に聞こえること、肌に触れること、考えること。

それらは全て、自分に起こることです。

目に見える他人、噂に聞こえる他人、手で触れられる他人、自分が「そういう人」だと考えている他人。

これらは皆、自分において起こる出来事です。

いわゆる「他人」なるものは、あなたにおいて起こった出来事の総合物です。

これが事実です。

 

その出来事の総合物を自分から分離して、自分とは全く別なものとして取り扱うことを、普段我々はやっています。

それは自分とは無関係なものであり、自分とは相対的なものであり、自分のあずかり知らない個別のもの。

それはつまり、そういう「考え」です。

他人との比較というものは、「考え」の中でだけ起こっています。

 

全ては「考え」です。

「事実」ではありません。

それは考えによって生まれ、考えによって発展し、考えによって結論付けられ、それがまた次の考えを生む。

「考え」の堂々巡りをしているの図です。

 

「考え」から降りてみてください。

そして、事実ありのままを見てみてください。

事実」「ありのまま」です。

 

あなたの見たそれって、本当に事実ありのままですか?

あなたが頭の中でこしらえた、「事実ありのままという妄想」ではありませんか?

 

それが本当に事実ありのままなのか、それとも頭でこしらえた妄想なのか、よく見極めて、そして事実ありのままを見てください。

そして、その「事実」のほうに慣れていってください。妄想のほうではなく。

 

いま世の中は妄想が支配していますが、そこを抜け出して、事実ありのままの世界のほうに居てください。

 

「他人との比較」はありません。なぜなら他人がいないから。

比較するものがそもそもありません。自分しかいないから。

他人との比較は、やめるものでも、やるものでもなく、そもそもそんなものはありません。

コメント

  1. それでもなぜ私たちは比較するのでしょう?
    あの人に比べて上だとか下だとか、
    相対性の宿命と言えばそうですが、
    この優越、劣等の物差し、人間社会には際限がないといわれています。
    いつでもどこでもついてまわる。
    あの人と自分は「違う」とは考えない、上だとか下だとか考える。
    そんなことないと言い張っても状況が厳しくなれば絶対口にする。
    潜在意識で信じていることが絶対口をついてでる。
    これを克服するには極に触れないとわからないかもしれない
    どの世界でもその世界のトップ、または無名の存在というものはいるので、

タイトルとURLをコピーしました