生きることの意味

生きててなんか感じる違和感は、本当の自分ではないという違和感です。

本当は言いたくないことを言ったり。本当は選びたくないことを選んだり。

 

愛想笑い、おべっか、気遣い、根回し。

生きるということは、妥協と偽りの連続であるかのようにも思えます。

 

本心を偽ることは、むしろ当たり前です。

自分を抑えて、周りのために行動することは、むしろ推奨されています。

 

しかし、そのときあなたは、本当の自分ですか?

 

そうではない場合のほうが多いでしょう。

本当はこうしたい、本当はああしたいという「本心」が、きっと別にあるはずです。

でもその本心の声は、抑えるのが当たり前になっていて、もはや聞こえてすらきません。

 

「本当の自分がわからない」

 

これは現代に生きる我々にとって、むしろ普通の状態です。

レストランに入って、何を食べたいのかすらもわからない。

 

いいです。

もはやそれでいいです。

そこから始めましょう。

「自分がわからない」

それを認めるところから始めましょう。

 

自分を偽りすぎて、もはや本当の自分が何なのか、見当もつかない。

現代を生きる我々にとっては、そこがスタートです。

そこから始めていきましょう。

 

 

我々は生まれてきたからには、本当の自分に出会いたいはず。

どんな花が咲くか、確かめたいはず。

 

自分を抑えることは、本来不自然なことです。

芽はまっすぐ上に伸びようとしますし、つぼみは膨らんで咲こうとします。

それを無理に抑えるのは、不自然なことです。

 

長年抑えられたつぼみは、もはや咲こうとする自然の力を失っています。

開こうとするする力がありません。

それを取り戻しましょう。

どうやって?

抑える力を取り除くことによって。

 

抑えていた力を取り除くと、自然と花咲く力が戻ります。

花が花咲こうとする力は、本来のものです。自然のものです。

それはなくなりません。

抑える力を取り除けば、それは自然と回復します。

我々にできることは、抑える力を取り除くことです。

 

ではどうやって取り除くか。

それは「意識すること」によって。

 

我々は普段、無意識に自分を押さえつけています。

周りの同調圧力によって、本心を偽り、周囲に合わせて生きています。

いま自分が押さえつけられているということに、ほとんど無頓着です。

ほとんど反射的に愛想笑いは出ますし、ほとんど反射的におべっかは出ます。

 

そこに気づき、意識することです。

意識の光を当て、白日の下にさらすのです。

 

おかしいと思ったのに言えなかった言葉。

場を取り繕うために行った演技。

 

相手のためにガマンしちゃったこと。

お金が惜しくてあきらめた洋服。

本当は行きたくなかった飲み会。

やりたくないけどやらざるを得ない家事。

 

自分を曲げている、数々の場面。

 

ただ単にそれに気づくだけでいいのです。

今まで意識に上ることすらなかったそれらを、単に意識に上すだけでいいのです。

 

あとは自然に任せましょう。

起こるままに任せませしょう。

成り行きを見守りましょう。

 

無理はしなくていいのです。

「あーもうやめよ」と、自然にやめるかもしれませんし、あるいは悶々とした思いを抱えるだけかもしれません。

途中でブチ切れるかもしれませんし、何も起こらないかもしれません。

どうなるかは、自然の成り行きです。

 

我々に必要なのは、見守ることです。

 

花を咲かせるために、我々にできることはありますか?

水をやり、肥料をやったら、あとは見守るだけですね。

花弁を引っ張り出したり、むりやり色を塗ったりしないでしょう?

 

思わず何かしなきゃという焦燥感に駆られるかもしれません。

もちろん、何かしたって構わない。

ただそれは何の解決にもならないというだけ。

 

見守ることです。気長に。

「起こる」のを待ちましょう。

 

花は無理矢理咲かそうとしても、咲きません。

でも、時期がきたら勝手に咲きます。

適切な世話をしたら、あとは時期が来るのを待ちましょう。

適切な世話とは、意識の光を当て、見守ることです。

 

たとえ咲かなかったとしても、我々には見守ることしかできないのです。

 

 

そして、花はたとえ咲かなかったとしても、満足です。

わたしが私のところに来てくれただけで、私は満足です。

わたしと共に過ごした時間のすべてが愛おしい。

泣いたり、笑ったり、苦労かけたり、かけられたり。

あんなこともあった、こんなこともあった、共に過ごした時間。

それがすでに、宝物です。

それがすでに、生きる意味です。

 

咲かないつぼみもあるでしょう。

じゃあ何のために生まれたのか。

その子に生まれた意味はなかったのか?

花として生まれたからには、咲かないと意味はないのか?

 

そんなことはありません。

咲かない花は、咲かないことが、意味です。

そんな花だってあります。

 

意味とはつまり、存在そのものです。

 

「それがそうであること」

これが意味です。

 

あなたはあなたとして生まれて、今ここに生きている。

それが意味です。

何者であるとか、何者になったとかは関係ありません。

今ここに、こうして、生きている。

これが意味であり、これ以上の意味はありません。

 

花は咲いてもいいし咲かなくてもいい。

あなたはあなたであることが、すでに意味です。

 

ただ安心して、見守りましょう。

それ以外にできることはありませんし、ただそれだけでいいのです。

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