痛み、恐怖、不安。
それらは確かにあります。
ありありと感じられます。
それに意識を向ければ、それは確かにありありと、感じられます。
あなたは何を望んでいるのでしょうか。
痛みを感じることを望んでいるのでしょうか。
不安にさいなまれるのを望んでいるのでしょうか。
望んでいないなら、それに意識を向けるのは、やめましょう。
誰だってネガティブな感情は感じたくありません。
それならそれにフォーカスを合わせるのを、やめましょう。
「やめたくてもやめられない」
それはあるかもしれませんね。
ヘビに睨まれたカエルのように、そこから目をそらすことができない。
そういうことも、あるでしょう。
でも、まずは気づいてください。
「あ、ネガティブにフォーカスを合わせているな」と。
望んでいないものに焦点を当てているなと。
そこに気づいたなら、今度はそこから違うところへ、焦点を合わせ直すことが可能です。
それでもやはり、気がつくとまた、ネガティブに焦点が合っていることでしょう。
その時はまた、気づいてください。
何度でも、気づいてください。
そして、自分が本当に望むものへと、焦点を合わせ続けてください。
何度でも、何度でも。
あなたが本当に望むなら。
人は本当は、豊かに生きたいはずです。
幸せに生きたいはずです。
では、ストレートにそれを希求しましょう。
何の回り道もいりません。
ストレートに、ダイレクトに、最も欲しいものに、フォーカスを合わせましょう。
…
あなたの欲しいもの。
本当に欲しいもの。
それは何ですか?
自分に正直に、トコトン正直に、問うてみましょう。
本当に欲しいものは何ですか?
あなたが欲しいのは、特定の何かではありませんね。
特定の何かが欲しいのは、それがあなたの欲しいものをもたらしてくれる「中間媒体」だと信じているからですね。
お金、地位、恋人、モノ、コト。
本当に欲しいのは、それじゃありませんね。
「その先にあるもの」が、本当に欲しいものですね。
例えば、幸せ、安心、豊かさ、健康、満足。
しかし、ここで止まることなく、さらにその先に行ってみましょう。
行けるところまで行ってみましょう。
本当に欲しいものは何か。
…
さて、トコトン突き詰めると、あなたが最終的に欲しいのは、「欲しいをやめる」ではないですか。
「あれが欲しい、これが欲しい」から解放されることではないですか。
「欲しい」がなくなれば、全て解決ではないですか?
「確かにそうかもしれない。でもやっぱり、欲しいものは欲しい」
その「でもやっぱり」がなくなれば、そこから解放されれば、全て解決ではないですか?
「でもやっぱり」という、どこまでもへばり付く執着から解放されれば、全て解決ではないですか?
「確かにそうだけど、でも…」
その「でも…」から解放されれば、それが最終的な解決ではないですか。
「でも…」「やっぱり…」「どうしても…」
そのしつこい執着から解放されることが、真にあなたが欲しいものではないですか?
…
解放です。
真にあなたが求めているのは、解放です。
自由です。
何かを掴むこと、何かに執着することによって、あなたが得るのは「不自由」です。
それに縛られる、ということです。
欲しいものと引き換えに、あなたは不自由を手にします。
欲しいものがたくさんあるなら、欲求がたくさんあるなら、あなたはたくさん縛られ、たくさん不自由になります。
何かを掴まえているその執着によって、そのままあなたが掴まっています。
掴まえているその執着を放せば、そのままあなたも解放されます。
真に自由が欲しいならば、なるべくたくさん手放すことです。
…
放す、放す、放す。
とても簡単なことです。
「掴む」よりもとても、簡単なことです。
でも現実は、放すという簡単なことのほうが難しく、掴むという難しいことのほうが簡単です。
なぜでしょう?
それは人間の生理的・生物学的性質によるものが大きいでしょう。
生存本能、危険を避け、快適に命をながらえたいという欲求。
他者に抜きん出たいという欲求。
認められたい欲求。
それら生理的な欲求が、生物的存在である人間に、備わっています。
人として生きている以上は、それらの本能から逃れることは、できません。
欲求とは全て、何かを「したい」です。
「掴みたい」という衝動です。
安全な場所、快適な環境、守ってくれる人。
それらを獲得し、しがみついていたい。
安全に快適に、命をながらえていたい。
それらを手放すなんて、とてもできそうにありません。
それは「死」を意味します。
失うこと。
それは「死」です。
一度死んだ人が強いのは、そいういうことです。
もう何も失うものがない人ほど、強いものはありません。
守るべき何物もない、しがみつくべき何物もない。
「無」であり「自由」である人。
これほど強い人は、いません。
それは、清水の舞台から飛び降りるような恐怖かもしれません。
「死」ほど怖いものはありません。
生物である人間をやめるようなことですから。
人はそんな「死」を、肉体の死を待たずに実行することができます。
あるいは、多大な喪失によって、ほとんど強制的に体験させられることもあります。
そして生きている間に死ぬことによって、人は新たに生まれ変わることができます。
人が本当に求めているのは、それです。
人が最終的に求めているのは、本当の自分に生まれ変わることです。
…
人は必ず死にます。
物理的な身体が死ぬのはもちろんですが、生きている間にも死ぬことができます。
それは「全てを捨てる」ということです。
今まで溜め込んだ、あなたとあなたにまつわる全て。
それらを全部捨てる、ということです。
物理的に捨てるのではなく、執着を手放すのです。
それはつまり、今までのあなたの死です。
そして、そこから生まれ変わります。
真のあなたとして。
生まれ変わるには、一度死ななくてはなりません。
全てを手放さなくてはなりません。
全てを手放すと、後に残るのは何でしょうか。
それは「何もない」です。
「無」です。
そこから、真のあなたが湧き起こります。
生命は「作る」ものではなく、「湧き起こる」ものです。
いままで「作って」きた全てを捨て、無に還ると、そこから自然と本来のあなたが湧き起こります。
あなたはそれを、選択することができます。
いつ、どの瞬間でも、選択することができます。
それは清水の舞台から飛び降りるような選択かもしれません。
火の輪をくぐるような恐怖かもしれません。
でも実際にやることは、握り締めている拳を緩めるような、とても簡単なことです。
怖いかもしれませんが、簡単なことです。
そしてその選択をすることは、いつでも、今この瞬間でも可能です。
真実への扉は、いついかなる瞬間にも、あなたに向かって開かれています。
あとはあなたが何にフォーカスを向けるか。
あなたの選択次第です。
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