真理を知るということは、別に嬉しいことでも楽しいことでもありません。
ただ知るだけです。
知ったから楽しい人生になるとか、そういうことではありません。
ただ単に、「そうなんだ」と知るだけです。
ただ単に知りたくないですか?
「一体どうなっとるんだ」と。
ただ単に興味があります。
人生のしくみ、世界のしくみに。
そしてそれは、見ればわかります。
見ればただ単にわかります。
何も隠されていません。
見たまんま、そのまんまです。
あまりにもあっけなさすぎて「え?」ってなりますが、それがそうです。
それ以上は何もありません。
見たものが全てです。
見たものとは何でしょうか。
それは、あるものが、あるように、ある。
それだけです。
それは、見た通りそのまんまですね。
それ以上も以下もないですね。
ダイレクトに、そのまんまです。
世界とは、たったそれだけのことです。
それを知ることが、自分の幸せとどう結びつくのか。
結びつきはしません。
それはそれ、ただそれ、というものです。
真理に何も期待しないことです。
真理は「ただそれ」です。
打ち出の小槌でもなんでもありません。
路傍の石と一緒です。
ただそうであるものです。
人が期待しているような何も出て来ません。
ただ、真理を知るのは、安心なことです。
そういうことか~とわかるから。
もうそれ以上知ることは、別にないから。
「なんだ、そういうことか。ははは」となるから。
真理って別に難しいことではなく、普通のことです。
路傍の石みたいに、普通のことです。
躍起になるような何もないし、崇め奉るような何もありません。
路傍の石ですから。
いちいち教えを乞うようなものでもないし、長年の探求も必要ないし、もったいぶる何物もありません。
真理と幸せは没交渉です。
全然関係ありません。
真理は真理、幸せは幸せです。
真理を知ることによって幸せになろうとか、考えない方がいいです。
それは、路傍の石を拾って、幸せになろうとするようなものです。
そんなことしませんよね?
真理とは、「この世界って一体何なんだ」という疑問によって、知るものです。
幸せとは、不足感、満たされない思いを解消するために、求めるものです。
真理を知ったからと言って、その不足感や満たされない思いが解消されるわけではありません。
真理を知っても腹が減るのと同じです。
人は真理を知りたいのではなく、幸せになりたいのです。
真理を知ったら幸せになれると思うから、真理を知ろうとします。
真理を知っても幸せにはなれないとわかっても、それでも真理を知りたいですか?
幸せになりたいのなら、真理を求めるのではなく、幸せを求めるべきです。
「真理を知って解放された~」みたいなことを聞くから、「えーいいなぁ、私も真理を知りたい」と、こうなっているわけですね。
そもそも真理なんて、求めるも何も、見たらそこにあるものです。
ただそれだけのことです。
じゃあ幸せとは何でしょうか。
不足感の反対ですから、満たされた思いですね。
「満たす」
どうやって?
そもそも「満たす」とは何なのか。
不足って何なのか。
不足ってつまり、「そんな気がする」ということですね。
実際に足りないものなんて、何もありません。
足りないとはつまり「足りないという気持ち」です。
だから満たすとは、空のカップに何かを注ぐというようなことではなく、「足りないという気持ち」をなくす、ということですね。
じゃあそもそもなぜ、足りないという気持ちがそこにあるのか。
これは比較の問題とも言えますね。
あれに比べたら、自分はまだまだ、足りてない、と。
比べなければ、足りないという思いもありません。
じゃあなんで比較するのかと言えば、比較対象が目に入るからですね。
つまり、「外」を見ているからですね。
比較対象を見れば比較してしまうのは、必然の道理です。
比較しないためには、外を見なければいいのです。
つまり、自分に集中するということです。
自分が今どうしたいのか、何を感じているのか。
そのことに集中するということです。
そして、自分のしたいことに忠実であるのです。
自分を満たしてあげるのです。
あれ、結局自分を満たすということが幸せでしたね。(笑)
そうです、幸せは外にあるのではなく、内です。
内である「自分」を最大限尊重するということです。
外と比較としての自分ではなく、内だけの自分。
自分の内から湧いてくる自分。
それを最大限尊重するのです。
自分を最大限尊重することが、すなわち幸せです。
それは真理とか何とか、関係ありません。
そして、自分を最大限尊重できるのは、自分だけです。
なぜなら自分の本心を知れるのは、自分だけだからです。
幸せとはつまり、自分自身を最大限尊重することです。
自分自身を最大限尊重している時、あなたは幸せです。
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