何かをしたから、幸せになるわけではありませんね。
何か幸せになるためのメソッドを実行して、その結果として幸せになるわけではありません。
我々はつい、何かをやろうとしてしまいます。
焦りや不安、それから見栄や欲。
他人はもっといい暮らしをしているのに、自分はそこまで行けてない。
みんなにもっと良く見られたい。
退屈になると不安だ。
いろいろな要因が、我々に「動け」とけしかけてきます。
そしてその声に従って、せっせと何かを始めます。
常に動いてないと、溺れてしまうかのように。
もちろん実際は、溺れはしません。
現実に、リアルに、溺れたり傷ついたりすることなど、ありえません。
その声は、あくまで幻想であり、妄想であり、思い込みです。
幻想や妄想を、本当だと思い込んでいるのです。
そしてこの幻想や妄想は、あまりにも現代において当たり前なので、それを見破ることはかなり困難です。
この幻想や妄想を、知識として知っている人は大勢いるでしょう。
この手の話は、本当によく聞く話ですから。
「あーはいはい、現実は妄想って話ね。知ってるよ」と。
そしてもちろん、知識として知っていることと、実際に体験として知っていることでは、雲泥の差です。
知識も一種の妄想ですから、妄想の中で妄想を妄想する、みたいな、もはや何が何だかわからない状態です。
ですから、「やめる」のです。
ゴチャゴチャをキレイさっぱり捨てるのです。
そしてそこに何が残るのかを見極めるのです。
…
そう、現代人に必要なのは、「やめる」ということです。
みんな何かを「やろう」としますが、本当に必要なのは、その逆の「やめる」ということです。
やめるなんてことはとてもできない、あるいは気づいたらすでに何かをやっている。
それが一般的な状態です。
ですから「やめる」は「やる」より数百倍むずかしいのです。
だから、真の幸せに到達する人が、これほどまでに少ないのです。
「やめる」は、本当に難しいこと。
エネルギーを使う「やる」よりも、使わない「やめる」のほうが簡単なようにも思えますが、事実は全く逆です。
ついつい、何かをやってしまいます、せずにはおれないのです。
ヒマさえあればゲームをしたり、SNSを覗いたり、テレビを見たり。
全く何もしないなんてムリ!
それが普通です。
そこで大事なのは、「やめる」ことの意義を、真に理解することです。
「やめる」って一体何なんだ、と。
…
「やめる」というのは、何もしないということとは違います。
何かをしてても「やってない」ということはあり得ます。
それは「やっている」のではなく、「起こっている」のです。
やってはいません。起こっているのです。
「やる」というのは、動機や理由によって動くことです。
それをやる動機や理由がなければ、動きません。
仕事はお金を稼ぐという理由のために動くことですし、退屈しのぎは退屈をしのぐために動くことです。
「起こる」は、動機や理由のない動きです。
子どもが遊ぶのは、動機も理由もありません。
遊びたいから遊ぶのです。
遊びは自発的に「起こる」ものです。
「やめる」とどうなるのか。
やめたからといって、実際に何もしないということはあり得ませんね。
何かはします。
というか、何かは起こります。
その、自動的に起こる何かを、見守るのです。
花は自動的に咲きますね。
雲は自動的に流れますね。
同じ自然の存在である人間も、本来は自動的に何かが起こるはずです。
それを起こすのです。
というか、それが起こるのを止めないのです。
それが起こるのを見守るのです。
それが本来のあり方、自然な生き方ではありませんか?
要は、不自然なことはやめようということです。
自然な存在である我々を、自然な存在のままにしておくのです。
つまり「何もしない」のです。
自然な存在である自分に還ろう、ということです。
…
我々はあまりにも不自然な状態が普通になっています。
寝たい時に寝れず、食べたい時に食べれず。
いや、そもそも「寝たい時」や「食べたい時」すらわからなくなっています。
自然に起こることを曲げてしまえるほどの「意志」の強い力を、我々は自然を守るために使いましょう。
我々は花であり風であり、星のきらめきです。
それらと何ら変わることのない本来の我々自身を、生きましょう。
コメント