本当にその人の人生というものは、その人が「何を見てるか」によって決まってくるという感じがしますね。
全く同じものを見ても、人によって見えているものが違っているということです。
よくコップの水の例に例えられますが、半分の水を「半分も」と思うか、「半分しか」と思うか、みたいな。
じゃあ人生を変えたかったら、見方を意識的に変える、という発想になります。
「そんなことできるの?」と思うのもひとつの見方ですし、「試しにやってみよう」と思うのもひとつの見方です。
この時点でもう、二つに分かれています。
どっちが良い悪いではなく、この二者はそれぞれ別の道を歩む、ということになりますね。
そもそも我々は自分がどのような物の見方をしているかに気づいていませんし、普段そんなこと考えもしません。
物の見方とは、その人のクセとも言えるし、キャラクターとも言えます。
そして瞑想とは、クセでもキャラクターでもなく物を見ること、と言えるかと思います。
率直に見る、直截見る、そのまま見る。
テクニックというものは、何かをどうにかするという発想ですが、瞑想は、何かをどうにかしないという発想です。
瞑想はテクニックではないということです。
つまり、「見方を変える」のではなく「見方を外す」という感じです、どちらかと言うと。
「何もしない」ということです。
これがまた結構難しい。
何かをしてしまおうとするのです。悲しいくらいに。
何もしないって出来ないでしょ? ついスマホいじったりしてしまうでしょ?
何もしないということは、「もう死んでもいい」くらいの覚悟がいることです。冗談みたいですが。
死んでもいい、どっちでもいい、もう何でもいい、くらいの捨てっぷりが必要です。
そうじゃないと、溺れる者が藁をも掴むみたいに、何かに掴まろうとしてしまいます。
もう溺れてもいい、流されてもいい、好きにしてくれ、なんて、なかなか思えないものです。
そういう感じの難しさがあります。誰だって死にたくはないですからね。
よく悟った人は「死んでも死なない」と言いますが、つまり、死んでみても死ななかったということがわかったのだと思います。
藁から手を離してみたけど、溺れることはなかった、ということです。
これは勇気でしょうか?
私は実験、あるいは探究だと思います。
「こうしたらどうなるのか?」という実験、探究、あるいは好奇心です。物理的に死ぬわけではないので。
現世的な利益を求めて瞑想に取り組むとうまくいかないんじゃないかと言いましたが、それは、現生的な利益を求める人が死ぬなんて選択肢を取るはずがないからです。
最も取るはずがない選択肢です。考え得る最大の不利益です。
(しかしこの最大の不利益の中に最大の利益があるというパラドックスが面白いところです)
「何かのために」ではなく、「ただ単に」。
その態度がすでに瞑想の本質にリンクしています。そして「生きる」ということの本質にもリンクしています。
ただ単に見る。
ただ単に生きる。
ただ単にやってみてください。
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