「何でもいい」ということです。
嬉しくても、楽しくても、悔しくても、悲しくても、何でもいいということです。
人は嬉しいこと、楽しいことなど、ある特定のものを求めます。
そして、悲しいことやつまらないことなど、ある特定のものを排除しようとします。
しかし、それは何でもいいのです。
何がやってきたとしても、それはそれで面白いものであり、味わい深いものです。
面白くないものなど、何もないのです。
人は成功を求めます。
それはそれで面白いものですが、失敗もまた、それと同じくらい面白いものです。
この視点に立てば、そもそも成功や失敗といった分類が発生しなくなります。
ただ全てが「面白い」だけです。
何か楽しい出来事がやってきた。ふむふむ面白い。
何か不都合な事態が発生した。ふむふむ、面白い。
あれも面白い、これも面白い、それも面白い。
どれも面白い。
これがすなわち、真実です。
「良いこと」や「ダメなこと」は、人が勝手に決めたジャンル分けに過ぎません。
全ては「ただの出来事」です。
そのようなジャンル分けは、本来の性質として、もともと備わっているものではありません。
人が勝手に決めたものです。
とにかく全てが面白いんです。
「つまらない」すら面白いんです。
「なにこのつまらなさ、オモロ〜!」とさえなるのです。
…
そもそもなぜ、選り好みが発生するのかというと、守るべきものがあるからです。「こうであるべき」という理想形があるからです。
自分のプライド、自分の命、快適な生活、素晴らしい人生。
「かくあるべし」という理想形に沿うものを「良いもの・歓迎すべきもの」とし、それに反するものを「悪いもの・排除すべきのも」としてジャンル分けします。
全ては「かくあるべし」という固定化された理想像とのギャップから発生します
ですから「かくあるべし」という理想像がなければ、そういったことは起こりません。
固定化された理想像がなければ、何が起きても「あ、そうなんだ」という態度になります。
何でもいいわけですから、何が起こってもいいわけです。
出来事をそのままに、冷静に観察する余裕が生まれます。
そのとき出来事は、可でも不可でもなく、ただの「それ」です。
全てはフラットです。
そのフラットな視点のことを「愛」と言います。
愛とは偏った視点のことではなく、全てを等分に見つめるフラットな視点のことです。
世界をフラット化することは、「視点」によって可能になります。
愛の眼差しで世界を見るならば、世界はすなわち愛です。
世界はただ愛であり、それ以上でも以下でもありません。
やらなければいけないことは何もないし、ならなければいけない何者もありません。
ただ愛にたゆとうているだけです。
世界が回答を出します。あなたではありません。
あなたは回答を出す必要はないのです。
というかあなたはそもそも、回答を出すべき存在ではありません。
回答を出すべき存在ではないあなたの回答が当たるはずもありません。
それは全く無駄というか、甚だしい思い違いです。
あなたは世界に立ち向かおうとしているのか、それとも世界に身を委ねようとしているのか。
あなたに苦しみがあるとしたら、それは世界に立ち向かおうとしているからです。
あなた一人で、この大きな世界に立ち向かおうとしているのです。
世界が一つの有機体だとしたら、そんな反抗的な存在は、言ってみれば「ガン」です。
それは排除されてしまいます。
あなたは何もやる必要はないのです。
世界という大きな有機体が勝手にあなたをうまく活用します。
あなたは独自に何かをやる必要はありません。
有機体に戻ること、フラットな世界に立ち返ること、愛の視点を思い出すこと。
ただそれだけでいいのです。
幸せのためにやることは、何もありません。
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