みなさまへのご提案としては、得る方向に動くのではなく、無くす方向に動いてみてはいかがでしょうか、ということです。
得る、というのは、お金を得る、人気を得る、知識を得る、好意を得る、モノや経験を得る、という、欲しいの対象物をゲットする、ということです。
それに対して無くす、というのは、それらを得ようとしない、ということです。
入ってくるものを敢えて拒む、ということではありません。
むしろ無くせばどんどん入ってきますから。
欲しいに従って動かない、ということです。
どのようにそうするのかというと、「欲しい」に目を向ければ、それは欲しくなります。
だから、「ない」に目を向けます。
「欲しい」はあってもいいのですが、そこに焦点を合わせない、ということです。
焦点を合わせなければ、無いも同然です。
焦点を合わせたものが、そこに存在するわけですから。
なぜこのようなことをお勧めするのかというと、このブログを読んでいる読者さんが求めているのは、きっとこういうことだと思っているからです。
何かを求めてこのブログにたどり着いたかと思いますが、その求めているものはコレですね、というご提案です。
さて、「欲しい」から目を逸らすことは、まあまあ難しいかもしれません。
今まで長年それでやってきた実績がありますから。
しかし、野球選手がフォームを矯正するように、変えることは可能です。
あとはやるかやらないかだけなのですが、これをやるためには、そっちのほうがいいという実感が必要だと思います。
いいのか悪いのかよくわからないものに、全力で取り組むことはできませんから。
まずスタートとしては、「ない」ということが当たり前なのだと、改めて確認してみてほしいということです。
例えばみなさんは、服をたくさん持っているかと思いますが、それは持っているのではなく、「そこにある」だけです。
同様に、お金や友達や家や車なども、みなさんは「持っている」と思っているかもしれませんが、それは「そのようにそこにある」というだけで、実は何も持っていません。
何も持っていないというこの感覚、わかります?
よくよく考えてみたら、持っている気になっているだけで、実際はただ単にそれらのものがそこにあるだけですね?
その存在のありようは、空や雲となんら変わりありませんね、実質的には。
空や雲がただ単にそうであるのと同様に、持っていると思っているもの全ても、実際は、そうであるようにそこにあるだけです。
この感覚でいくと、身体すらも、思考すらも同様に、「そこにある」というだけで、持ってはいませんね。
なんにも、持っては、いない。
これ事実ですよね? どうですか?
「わかったら何?」という疑問はひとまずおいといて、まずはこの事実を確認してみてください。
間違いありませんね? そうですね?
じゃあその感覚で周りを見渡したら、なにもありませんね。
いや、目には見えますよ、音にも聞こえますよ、それらは。
しかし、「目に見える」ということと「ある」ということは、違います。
「目に見える」ということと、「ある」はイコールではありません。
私たちは何も持ってなかったじゃないですか?
持っていたと思っていたものは、「持っている」という感覚を持っていただけで、実際のありさまは、ただそれらがそのようにそこにある、というだけで、それ以上でも以下でもありませんでした。ですよね?
あるものなんてないのです、つまり。
「ある」という感覚があるだけで、目に見える感覚、音に聞こえる感覚、手で触れる感覚などを総合して、「こうである」という自分なりの事実を構成しているにすぎない、ということです。
自分なりの事実と、実際のありさまを混同しないでください。
みなさんが事実といっているそれは、ご自身だけのオリジナルの事実であり、現にそうである事実ではありません。
そのことにまず気づいてください、ということです。
言っていることわかりますよね?
あ、確かに事実は何もないな、と確認できましたね?
それこそが本当の事実だと把握できましたね?
では現在のご心境をお聞かせください。
どんな気持ちがしてます?
なんにもない、というその場所は。
言葉にはしづらいですね。
しかし、日常生活で感じる喜怒哀楽とは別次元の感覚ではありますね。
日常の見え方とはまるっきり別な見方で見えるその場所は、日常の感覚とはまるっきり違う感覚です。
積極的にその感覚を感じたいか、というと、また違うかもしれません。
ちょっと新しくてまだよくわかんない、というのが、正直なところかもしれません。
うまいもん食ったときに感じる「うまっ!」っていうわかりやすい感覚とはまた違いますから。
しかしです。
その感覚こそがキーです。
日常を逸脱したその感覚こそが、日常の有象無象を霧散させるキーです。
自分なりの感覚で構築したいびつな事実を霧散させると、宇宙の流れに沿った、正しくあるべき事実が構築されます。
「整う」のです、要するに。
無くしたら、整います。
だから、無くす方向に動きましょう、ということです。
もう一回まとめますよ。
ない、ですね、事実として。
全ては「ない」です。
じゃあそこにいてください。
しばらく、しばらく、しばらく。
その感覚でいてください、その感覚。
嬉しいとか楽しいとか、そういうことではありませんね。
「ない」です、いってしまえば。
からっぽです。
からっぽの人はいったいどういう反応をすると思いますか? 日常生活において。
思った通りを言いますね。忖度とかそういうのなくして。
スパンスパンと、来たボールをすべて真芯で捉えて、全部ヒットにしてしまいますね。
当たる人、です。
全部正解を答えてしまうのです。
それは「自分」が答えているのではなく、宇宙が答えているのです。なにしろ自分はありませんから、からっぽですから。
宇宙は直截です。回り道をしません。
スパンと「コレ」って正解を出します。
それですよね? 求めてたのって。
そういう人になりたいと思ってませんでしたか? 違ってたらごめんなさいですが。
これをお勧めする理由は、そういうことです。
今回は非常にわかりやすく書けたんじゃないかと自分でも思いますが(笑)、わからない点などありましたら、ぜひコメントにてお知らせください。
コメント
コメント失礼します。
先日 全ては完璧とGoogleで検索してこちらのブログに辿り着きました。
主さんの深い洞察に心打たれ 少しずつブログを読ませて頂いてます。
ひとつ質問なのですが 主さんのその洞察は瞑想によって得られたものでしょうか?
コメントありがとうございます。とてもよいご質問ですね。
瞑想ではありません。
事実は何かを見ていった、という感じです。
事実は我々がこうだと思い込んでいる内容とは、まるっきり違います。
返信ありがとうございます。
事実を見てですか そうでしたか。
我々がこうだと思い込んでいる内容は
ひとりひとりの主観で異なると
思うのですがまるっきり違うというのは
どうして分かるのでしょうか?
お手隙の時に返信頂ければ幸いです。
自分の経験と、世の中の状況をみて、ですね。
我々を指すところの意味を捉えて違いされてるように感じますがその点はいかがでしょうか?
我々とは 個人個人を一括りにする意味あいをもちます。
しかしながら わたしは貴方様も含めて間違った錯覚をしているのでしょいか?
そうかもしれませんね。
私も、「全ては完璧」と検索してこのブログにたどり着いたことを思い出しました。
その後、このブログの記事を全て読みました。
読み物として楽しんでます。
すみません 責めるようなコメントになってしまい。
わたしも道理を求めて ながらくやってきてもう少しのところにいる様な気がしています。
その時にこーへさんのブログに辿り着きました。
もしこーへさんが
その事実として明確なものが有れば
ご教示いただきたくおもいます。
そんなものは何もない、ということでしょうかね。
何もない。
そうですね。
そこに尽きるのかと思います。
言葉にする事しだいナンセンスなんでしょうね。
ありがとうございました。
はじめまして。
今年からブログを何度も拝見しています。頭で理解しようとするはど混乱していましたが、本当の自分を生きることの感覚がこの記事で急に腑に落ちました。
エゴに自分を明け渡していたので、欲しいものや望むことがないといけないと思っていました。なくていい、何もない、その感覚を味わっている時間を増やしてみます。これからも更新を楽しみにしてます。ありがとうございます!
こんにちは。
それは嬉しいお知らせですね。
わざわざお知らせしてくださってありがとうございます。
みなさんが楽になるきっかけになれたら嬉しいですね。