自分を掴むとわかるもの。
それは「自分じゃない」という感覚です。
本当の自分は、自分という感じがしません。
もっと無に近いもの。
それは何もしないときに勝手に出てくるものですから、無には近くなりますね。
それは自分で見ることができます。
「ああ、これだな」と、対象として見ることができます。
でもそれは「何」ではありません。
具体的な「何か」ではありません。
湧き上がる「もの」ではなく、湧き上がる「源泉」です、どちらかというと。
その源泉に、気づくことができるのです。
「あ、自分ってこれか」と。
これが転換の第一歩ですね。
…
それは全然、作るものじゃありません。
憧れの誰かのマネをすることではありません。
もともとそうであるものです。
「自分とは何か」を探す場合、誰かの言っていることを忠実に守ろうとしがちですが、それは実は違います。
「これこれこういう手順を踏むんだよ」と言われれば、それを忠実に守ろうとしますが、そのときあなたは自分自身をその人に捧げています。
自分を誰かに捧げちゃだめです。
必ず自分が上に来なくちゃいけません。
全てを自分の下において、眺める。
それが本当の自分である時の態度です。
それはもちろん、見下すということではありません。
見下すというよりも、均等に眺める。
その眼差しは、どちらかと言えば「愛」です。
眺め、そして選択する。
主導権は、必ず自分にあります。
…
人は基本、自分を低める傾向にあります。
「あの人はすごい、この人もすごい。でも自分はすごくない」みたいな。
その根拠となるのが、その人の出している、目に見える結果や実績です。
足が速いとか、仕事ができるとか、すごく稼いでいるとか、話がうまいとか。
美人だとか、学歴があるとか、結婚してるとかしてないとか。
目に見える結果で判断しています。
あの人たちは結果を出しているけど、自分は出してない。
自分も何か自慢できる結果が欲しい。
人のことを結果で判断するのと同じく、自分のことも結果で判断します。
そして結果を出していない自分を責め、失望します。
…
あぁ~、残念!!!!
結果なんてクソですよ?
あってもなくても同じですよ、そんなもの。
結果がないと何を言っても説得力がないし、誰にも認められない、なんて思っていませんか?
ちょっと待ってください。
そもそも説得力なんて必要ありますか?
誰かに認められる必要なんてありますか?
そんなものいらないでしょう、よく考えたら。
あなたがホッとして、心の底から自分自身を生きるのに、誰かの承認や説得力がいりますか?
よく考えたらいりません、そんなもの。
私たちはうっかり、人の下にもぐりこんでしまいます。
自分が上じゃなくて、下にもぐりこんでしまうのです。
人様が上、自分が下。
人様に認められて、ようやくホッとできる。
そんな立場に、無意識のうちに自分を置いているのです。
これはもう、本当に無意識です。
だから、意識的に、立場を逆転させればいいのです。
自分が頂点に立って、世界を見下ろす。
自分が頂点であれば、誰の承認もいりません。
なんなら自分が承認を下す立場です。
その立場に立つのに、何の結果も実績もいりません。
「心」だけです。
心でそう決めるだけです。
「あ、自分が頂点だ」と。
世界を見守ってみてください、その立場から。
どんなに落ち着いていられるか。
どんなにくつろいでいられるか。
自分を低めるんじゃなく、自分を高めるのです。
必要なのはそう「決める」だけです。
実績とかお金とか説得力とか、そんなもの全然関係ありません。
ただ単にそう「決める」だけ。
だって心の中だけの話だから。
実績を作れとか、そういう話じゃないから。
簡単すぎて信じられない?
だからあえて難しいほうを選択します。
実績を作って、証拠を集めて、もっともっとと頑張って、それでもまだ不安で、でももう一歩も進めなくて、みたいないばらの道をあえて選びます。
そっちのほうがやった気になるから。
簡単な方法があるのに、あえて難しいほうを選択しています。
あえて自ら難しいほうを選択しているのに、「苦しい~!助けて~!死ぬ~!」と言っているのです。
ちょっと待って!!!!
自ら自由意志で難しいほうを選択しているのに、何言っちゃってんのよ。(笑)
いやー、もうね、ほんとに皆さん、望んだとおりの人生を送っています。
寸分の狂いもなく。一人の例外もなく。
全員、自分が「思ったとおり」の人生を生きています。
その現実は、あなたが思ったとおりです、寸分の狂いもありません。
まずはそのことを認めてみてはいかがでしょう。
「そうか、これは自分が思ったとおりの現実なのか」
認めると、話が進みます。
じゃあ望む現実は何だろうと、現実の変更が動き出します。
認めなかったら、何も前に進みません。
承認印を押さなければ、書類はそこでストップしたままです。
やっていいのです。
あなたが思ったとおりに、やっていいのです。
心はあなたの思いのままです。
なんの制限もないじゃないですか。
誰に知られるわけでもないじゃないですか。
外の世界とは無関係なんだから。
「内」だけの話だから。
何を望んでも自由だというのに、なんでわざわざ2番や3番、あるいは100番を望まなきゃいけないのでしょうか。
「最高」でいいじゃない。
「1番」でいいじゃない。
自分を1番にしてしまえばいいじゃない。
今その場でそうすればいいじゃない。
ほらもう1番だよ。
世界は全部、あなたの下だよ。
あなたが1番。あなたが最高。
だからこそ他人の1番も認められるのです。
世界にやさしくなれるのです。
あなた以上がいないから。あなたが最強だから。
その時、あなた以外はみんなかわいいでしょ?
最強であればもう何も怖くありません。
ただくつろいで見守るだけです。
1番になれば余裕が生まれます。
どっしりと王座に腰かけて、慈愛の気持ちでまわりを見わたすことができます。
素直になります。なんの隠し立てもありません。なんのわだかまりもありません。
もうどこも目指さなくていいんだから。
頑張る理由が何もないから。
あなたは全てに勝ってるんだから。
「すごいね~!」って人から褒められると、「いやそんなそんな」って気持ちになるでしょう?
そして、「あなたもやってみなよ、簡単だよ」と、何か慈愛に似た気持ちが動くでしょう?
1番になってしまうと、「みんなもおいでよ、簡単だよ」「一緒にやろ? 楽しいよ」と、何か余裕とか愛みたいなものがあふれ出してくるのです。
1番の立場からみると、回りはみんなかわいいし愛おしいもんです。
そんな1番に、今スグなれるのです、心の中で。
全てに勝るのに、競争も実績もいらないのです。
勝って何かを証明する必要はないのです。
証拠は何もいらないのです。
「心」だけです。
もうわかったよね? 簡単だよね。
あなたも好きな自分を選んで、好きに生きてよ。
遊びという感覚でやってみるといいかもしれない。
心の中の、遊び。
めっちゃ自由だったなって気付くよ。
心ってすげーなって。
こんなすごいものを自分は持っていたのかって。
それは「源泉」です。
全てがそこから湧き出す、源泉。
外に生きるんじゃなくて、内に生きるんです。
外は不自由だけど、内は自由です。
心ゆくまで、自由です。
無限の、自由。
自由は外に、あるんじゃないよ。
心の内に、あるんだ。
コメント
すばらしい❤私が書きたいような内容を表現されている。( ^∀^)
まるで自分が書いている文章を自分で読んで自画自賛しているみたいで気恥ずかしい。
人は足元の真理になかなか気がつかない。私たちは宇宙と同じで拡大していく性質を持っているから、それに反し、今に留まり、今を肯定するのはとても勇気がいる。
私の兄弟の最も小さき者に施したことはこの私にしたのである。と聖書にあります。これは日常の些細な見逃しがちな事物こそ大事なのだよと教えてくれます。小さきものとはそういう意味です。
実際はほとんど理解されず、実行されない真理に留まっています。これが一番実行しやすいし、容易であります。こうした小さきものに価値を見出だせるかというと、別です。
人はもっと崇高なもの、価値のあるもの、強そうなもの、凄みのありそうなものに目が行きがちです。そうした小さきものは普段日常のすみに追いやられがちです。
それはそうです。競争に勝つこと、他より優れること、それが社会の信頼性を支えているのだから、それがなくなったら、明日からどうすればいいんだ?きっと途方にくれるでしょう